大井川通信

大井川あたりの事ども

『長谷川龍生詩集』 現代詩文庫18 1969 

長谷川龍生(1928-2019)の訃報が、数日前の新聞にあった。年譜を見ると、僕の母親より一年早く生まれ、一年遅く生きたことになる。

手もとにある詩集を追悼の気持ちで読んでみると、これがけっこう面白い。1950年代に書かれた詩が中心なので、その時代の雰囲気が濃厚に感じられる。

工業と工場労働者たち。血と汗と体液と汚物にまみれて、傷ついた肉体。戦争の記憶。独裁者と革命家たち。イメージの飛躍と思わぬ結合。コミュニズムとシュールリアリズム。50年代の安部公房の小説や中村宏池田龍雄ルポルタージュ絵画を彷彿とさせるような諸要素だ。

「恐山」や「虎」などの長い力作も、いたずらに難解になることなく、とっつきやすいイメージを展開しながら、前者は「きみも、他人も、恐山」、後者は「虎、走る。/虎、走る。」のリフレインが効果的にリズムを生み出している。

短いものでは、彼の代名詞ともいえる「理髪店にて」が、やはり見事だ。ほかにも、こんな作品を見つけた。タイトルは「夜の甘藍(きゃべつ)」。

 

だれもいない/がらんとした/夜の野菜市場の/ぶあついコンクリートの上に/冬甘藍の山が、七つ八つ/盛り上げられたままにある。

まっ青な光を放ち/見上げる通り柱の/たかい天井のすみずみに/映りかがやいている

いま、ひとりの仲買人が/ジャンバーの襟を立てて/市場の中へ、影法師のように/さっと、入ってきた。/すると、甘藍の山肌を這っていた/時節はずれの二匹の青虫が/はたと、死んだように/動かなくなった。

外はまっくらだ/朝まで吹くつめたい風が/細いつららのあいだを/とおりぬけていく。

 

 キャベツというありふれたモノを注がれる視線が、それを別の世界の手触りと強度をもった何ものかへと作りかえている。それだけでなく、そこに物語、それも何か政治的な対立や緊張感をはらんだ物語を暗示させるところが、独自の魅力だ。