もう30年も前の話になるが、従兄が、同じ演劇人同士で結婚をしたとき、青山の会館で結婚式を挙げることになった。親戚同士の顔合わせの小規模な式だったから、当時東京で塾講師をしていた僕が司会を頼まれた。
式が終わったあと、伯父から手渡された鉛筆書きの紙片が手元に残っている。
「安彦の色きよげなる幼な顔司会を聞きつつ瞼に浮かぶも」
伯父の家は、同じ敷地にあって、僕が生まれてからの姿をずっと見てくれていた。幼かった僕が自分の息子の結婚式の司会をつとめたことの感慨と感謝を、短歌に託して伝えてくれたのだろう。
それからしばらくして、僕は九州に転居して、自分の家を持つようになった。その時のお祝いに添えられた便せんには、こんな短歌が記されていた。
「玄界灘波風荒き今の世に新家(にいや)建てしと聞くが嬉しさ」
感謝や祝意は、その場で言葉に出せば、十分伝わるものだ。しかし、人間の感情ほど揺れ動くものはなく、記憶も確かなものではまったくない。暴風雨のような時間の経過が、あいまいなやり取りなどすべて押し流してしまう。
その時、短歌という器を用いると、一期一会のやり取りや瞬間の感情を凍結させて、真空パックのように鮮度を保って保存することができるのだ。おそらくこの二首は、僕以外の読者を期待して作られてはいない。伯父が亡くなって15年以上がたつが、たまに取り出して伯父を偲ぶよすがとしているから、その役割を十二分に果たしていることになる。
短歌とは不思議なものだ。作品の巧拙といったこととは次元の違うところで、人間にとって必要不可欠な何かをみたす手段ともなっている。若い人たちの間で短歌がすたれる気配がないのも理解できるような気がする。
ところで、今回昔のメモを探していて、伯父の残した俳句を見つけた。伯父は世間的には僕の父親よりも日の当たる道を歩んだが、文学趣味が共通する弟を認めているところがあったのだろう。
「紫蘭(しらん)出づ大隠弟この町に」
詞書には「弟に『大隠(たいいん)は朝市(ちょうし)に隠る』と」と添えられている。真の隠者は山野などには隠れ住まず、俗人にまじって町中で超然として暮らしている、という故事にならって、工場勤めをしながら書物の世界にあそぶ弟をもちあげたのだろう。両者を知る僕には、懐かしくもほほえましい。