大井川通信

大井川あたりの事ども

僕の短歌

何事についても、それを考えるための手がかりは、自分が生きてきた時間と空間のうちにある。そこで短歌については、まず伯父とのかかわりが出てきた。では、僕自身、短歌を意識して作ったことはあるのか。これはまったく記憶にない。

詩なら、学生時代の草稿は数百はあるかもしれない。俳句も思い付きでつくったことがある。あれこれ思いめぐらしてたら、数年前に短歌めいたものが自然と口をついて出てきたことを思い出した。

僕の友人で、公立図書館の司書をしている人がいる。レファレンスの仕事をしていると、いろんな人がやってきて、その人なりの様々な疑問を携えてくるのだという。彼女は、来館者の人生や生活を背景にした問いに対して、答えを見つける手伝いをすることにやりがいを感じている、と話してくれた。

この話は、僕にはとても新鮮に聞こえた。僕自身は、子どもの頃から本屋も図書館も古書店も大好きな場所だったが、とにかく人にものを尋ねるのは苦手だったから、どんなことも自分で調べていただろうし、そもそも僕にとって図書館は目的をもっていく場所ではなく、本に囲まれた居心地の良い環境だったのだ。

「図書館は小さな問いを携えて人来る場所と友はいうなり」

そこで僕は即興でこんな短歌をつくって、彼女に話した。意識して作ったというより、口先でその発見をつぶやいていたら、自然と短歌の韻律になっていたというのが真相だろう。そのあと、メールのやりとりでこの歌のことがもう一度話題になったこともあって、いっそう印象に残ることになった。

その時は新鮮な言葉や思想、新しい気づきも、たいていは忘れ去られてしまう。それを少し工夫して短歌という容器に入れておきさえすれば、持ちがまったく違うのだ。と同時に、他者との間で自由にキャッチボールできるものとなる。

やや遅きに失した感じはあるが、この便利な容器を生活のなかで(とくに大井川歩きの場面で)使わない手はない、と思い始めている。