大井川通信

大井川あたりの事ども

「自分が何も分かっていないということ。さらに無力であるということ」

村瀬孝生さんは、老人ホームに勤めてそう思ったという。「だから、お年寄りたちから振り回されっぱなし。でもそれって悪いことじゃないと思う」と村瀬さんは続ける。無力であることを自覚すると素直になれる。素直な気持ちでお年寄りたちに振り回されるようになれる、と。

『おばあちゃんが、ぼけた。』は、若い世代向きに書かれた本で、挿絵や四コマ漫画も交えてあって、とても読みやすい。実際に村瀬さんがかかわったお年寄りのエピソードが中心の本で、本を読むのが遅い僕でも、さっと読めてしまった。思わず笑ったり、考え込んだり、ホロっと涙を誘われる、やさしい語り口だ。

なのに、その文章には、一字一句動かしようのない確かさが感じられる。村瀬さんの確信を、にごりのない池の水のようにたたえている。谷川俊太郎の解説がついているが、言葉のプロである詩人の言葉が村瀬さんの言葉に及ばない浅い思いつきに見えてしまうほどだ。

けっして大げさではなく、どんな哲学書や科学の本よりも、人間というものの本質に触れているように思えるのは、なぜだろうか。

僕らは近代以降の時代にすっぽりとくるまれて、それにつき動かされて暮らしている。世の中の常識も、学問も思想も、「自立して、主体的に活動して、成長する人間」という巨大な色眼鏡によって作られている。住み慣れた家と自然の中で、なじんだ人々とともに同じことを繰り返し、少しずつ衰えながら暮らしを縮小させてやがて死ぬ人間という、僕たちの実際の人生の半分を、この色眼鏡は視野にとらえることができない。

それでも優れた思想家たちは、近代の複雑な色眼鏡を点検したり、過去の歴史や辺境の人々の暮らしを調べたりして、なんとかその外をのぞこうとする。ただそれはとてもやっかいで分かりにくく面倒な作業となるだろう。

村瀬さんは、若いころから、人生の後半を生きる人々とかかわりながら、それを人生の前半の論理で切り捨てるのではなく、実地で彼ら彼女らの生き方に学んできた人だ。近代の色眼鏡がかくしてしまった世界に直にむきあいながら、今の社会の中に、その世界が宿る場所を実際につくってきた人なのだ。

だから村瀬さんの言葉は、やさしく面白いのと同時に、人間というものの真相にどこまでも垂直に降りていくような深さや確かさをもっているのだろう。