大井川通信

大井川あたりの事ども

「意識しないとできないことは実はどうでもいいことなのさ」

『おばあちゃんが、ぼけた。』の中の、村瀬孝生さんの言葉。

「人の暮らしって、同じことの繰り返しが基盤となって成り立っている」と村瀬さんはいう。その毎日をどう繰り返すかが大切なのであって、無意識におこなっていることほど直接生きることに直結している。だから、意識しないとできないことは、生きることにとって実はどうでもいいことではないか、と。

この薄い子ども向けの本の中の言葉に、僕は何度も軽いショックを受けて、立ち止まる。言っていることの意味は難しくはないし、理由付けも了解できる。しかし、こんな言葉を正面切って聞いたことはなかった気がする。

毎朝起きて、食事をとって、排せつして、着替えて、車を運転して通勤し、同僚にあいさつする。そしてルーティンワーク。帰宅。風呂。就寝。こうした習慣化して無意識にできることは、たいてい価値の低いことと考えられているだろう。

一方、思考や判断、協働や調整などの意識して頭を使う仕事こそが、新しい価値を生み出す貴重なものと考えるのが、現代の常識だ。

村瀬さんの言葉は、この関係をものの見事に逆転している。後者がどうでもいいというのは、それが老いによってやがて失われるものであり、それがない生活を肯定するためにちがいない。

しかし、この逆転は、僕にとって都合のいいことばかりではない。僕が自分で多少得意と思って頼りにしていることは、たいてい「意識しないとできないこと」の方だからだ。

考えること。本を読むこと。文章を書くこと。人を笑わすこと。

しかし、すでに込み入った長い会話の最中に頭が働かなくなったり、適切な言葉が思い浮かばなかったり、ジョークが滑り勝ちになるなど、これらの能力にも陰りが見え始めている。僕がブログを書き続けているのも、考えたり書いたりできるうちに、その形見をできるだけ多く残しておきたいためかもしれない。

考えることも、読み書きも、お笑いもできなくなったら、ずいぶんがっかりするような気もするし、そうでもないような気もする。もともと怠け者だから、何もしないことも得意なのだ。その時には、ぼんやりと近所を散歩しよう。歩けなくなったら、窓から顔を出して、景色と風を楽しもう。子どもの時からさんざん人を笑わせてきたのだから、最後には気楽に笑う方に回ろう。