大井川通信

大井川あたりの事ども

(自分の子どもに)あなたはどなたですか?

ぼけて、自分の子どものことがわからなくなったお年寄りの話を聞くことがある。僕の妻の母親も、病院に入ったとき、面会にいった妻のことがわからなくなったときがあって、妻もショックを受けていた。

人間にとって、一番身近で大切なのは親子関係だろう。その親子関係を忘れたとしたら、その人らしさや人格の大半を失ってしまったように、表面的には思えてしまう。村瀬孝生さんの本を読んでいたら、そうではないのだ、という指摘があって、目を洗われる思いがした。

村瀬さんは、ぼけたお年寄りは、分別は失っていないのだという。ただ、空間と時間の意識がずれたり、失調したりしているものだから、その土台の上で働いている分別が見当違いなものに見えてしまうのだという。

村瀬さんは、先ほどの子どもを認識できなくなったお年寄りを、タイムスリップという言葉でうまく説明している。お年寄りは、若かった自分を思い出すだけでなく、タイムスリップしたかのように、その時の自分になってしまう。すると、我が子も、子育て真っ最中の可愛かった姿に戻っているから、そこに50年後のもはや面影のないおじさんが姿をみせても、それを子どもと認識できないのは当たり前なのだと。

つまり、お年寄りは、子どもの記憶とか子どもへの愛情という大切な「分別」を失ってはいない。むしろ純粋にその分別を追求して、余計な部分をとり去ってしまったために、かえって現在の子どもの姿を認めることができないのだ。

このことは僕にもよくわかるような気がする。濃密な関係の中で子育てした幼い我が子の姿が、やはり僕の心の中核をしめている。成人して見違えた姿と、うまくつながらないときが今でもある。まして年に何回も会わない中で、どんどん変わっていく姿を子どもと認識し続けていくのは、かなり難しい作業であり、それがいずれできなくなっても無理からぬように思えるのだ。

そもそも皆だいたい同じような人間の顔を識別する能力は、社会生活に不可欠なものとはいえ、とても高度な能力で、それが失われる障害もあると聞いている。現に以前の僕の上司も、人の顔を覚えるのが極端に苦手で苦労していた。普通の人でも、関心のない異世代の顔は同じように見えがちだ。お年寄りの中に、その能力を苦手とする人が出てきても不思議ではないだろう。

教育の場面では、子どもたちがさまざまな能力を獲得していくプロセスが精密に跡付けられている。なるほど、新しい能力の獲得に応じて、子どもたちが自分たちの世界を広げていく過程を支援していくことは大切だろう。

しかし、獲得したものは必ず失われる。人間の老化は、獲得した一つ一つの能力が失われていく過程だ。それに見合って各人が自分の世界を閉じていく過程をていねいにフォローすることも、教育と同様に必要であるはずだ。

子どもの成長の場面をいつくしむような視線で、お年寄りのぼけの姿を大事に思うことができる。村瀬さんの本は、そのことを教えてくれる。