大井川通信

大井川あたりの事ども

『急に具合が悪くなる』 宮野真生子・磯野真穂 2019

 

ガンで死に直面した哲学者と友人の文化人類学者との往復書簡。読書会の課題図書として読んだのだが、僕には、とても読み進めるのが難しい本だった。

細かい違和感は多くあるのだが、その大本を探っていくと、次の二点に突き当たる。

一点目は、礒野さんの書簡について。この本の中で、彼女の言葉は激しく空回りしている。それをどう評価するにしても、この空転やうわすべり感を否定することはできないだろう。ではいったい、この空回りの理由は何なのか。

二点目は、宮野さんの書簡について。磯野さんの誘導で、彼女は死病に向き合う哲学者として独自の哲学的思考を求められる。にもかかわらず、最後まで彼女はそれを示すことがない。九鬼哲学の解説や死に向けての決意は語られるが、既視感は免れない。これはなぜなのか。

この二点について、僕なりにおおざっぱな見当をつけてみたい。

かつて日本には、生活のレベルでの実践的思想と、学問の世界の思考との、深刻なすれ違いという問題があった。後者が直輸入の専門用語によってなされて、日常語のよる思考との間に断層があったからだ。

小林秀雄のような文芸評論家や、吉本隆明鶴見俊輔などの在野の思想家にアドバンテージがあったのは、この事態と正面から向き合っていたからだろう。彼らは、社会全体の認識や革命を志した世代であったために、この断絶の問題を扱わざるを得なかったのだ。

40歳過ぎの著者たちの世代になると、こうした問題意識が欠落しているのは仕方がないのかもしれない。確かに知識人対大衆などという問題設定は、とっくに陳腐化している。彼らはためらいもなく日常のあれこれを研究の俎上にのせて、悪気なく「上から目線で」解明しようとする。

では、思想と生活とのねじれや対立という根本の問題が解消しているのかというと、僕は手付かずで残っているような気がする。これが問題として浮上するのは、病を得る、老いる、死に向き合う、といった生活のど真ん中における事態を考えなければならなくなったときだ。

礒野さんの研究者としての好奇心は、事態の核心に切り込めずに、その周りをぐるぐると回り続ける。宮野さんも、哲学者としての思考を求められる限り、この事態を言語化する手立てをもたないように思える。