大井川通信

大井川あたりの事ども

諦めと手遊び

何度か触れてきたけれども、僕の実家は、伯父の家の敷地の奥にあって、家の大きさだけでなく、その暮らしぶりにも経済的な格差があった。それだけでなく、自分たちの立場がやや不安定であることにも、小さい時からうすうす気づいていたのだと思う。

似たもの同志というか同病相哀れむというか、妻も僕と同じような境遇だったことをあとから知った。隣家のおじさんは弁護士だったが、妻の方は、親が離婚した母子家庭だった。それでも従姉妹たちとは仲が良かったというのも同じだ。

近しい親戚だから、どこか暮らしは一体化して、大家族のようなところもある。隣家の豊かさの余禄にあずかるところもあった。だから、あからさまな格差に、ふつふつを反抗のパワーをつちかう、というようにはならない。いつか見ておけというハングリー精神には火はつかなかった。

日々目にする差異を自然に受け入れる姿勢と、その環境の中で、身の丈にあった遊びを工夫するという態度が、僕の精神の基本に備わったのだと思う。それは今の思考や暮らしにも、まっすぐにつながっている。大井川歩きという振る舞いにも。(もっともこれは、前近代のムラ社会では、ごく当たり前の心の持ちようだったかもしれない)

僕が小学校2年生、8歳のときの日記を読み返して、こんな文章に出会った。ひな祭りの前、1970年2月24日の日付がある。

 

〇〇ちゃんちは、きょう40000円もするおひなさまが、きた。ぼくのほうはじぶんで、ちいさなかみのおひなさまをつくっている。ずいぶんスケールはちがうけど、まあいいや。