大井川通信

大井川あたりの事ども

カウンセリングを受ける

機会があって、カウンセリングを受けてみた。特に大きな悩みや生きづらさを感じていたわけではなくて、偶然、そういう機会が舞い込んできたからだ。

日頃自分自身には、不思議だとか変だとか思うことが少なくはないのだが、なんとか自己解決してここまで生きてきた。ただ専門家と話してみたいことはある。

気になることがあるとしたら、そういう自己解決を積み重ねてきた今の自分の人格の体制みたいなものが、とりあえずその自覚はあまりないのだが、外から見た場合にホコロビが目について崩壊の兆しがあるかもしれない、というあたりだ。身体の方もかなりボロが出始めている。精神の方も、自分では気づかずに、急にガタっとくるかもしれない。

結論からいうと、そんなこともないようだった。というか、そういう特別な診断が可能な場所ではなかった。カウンセラーは話しやすい人で、僕の日頃の生活を題材に、そこそこ知的な会話を楽しめたという感じだった。当然、そこにはいくつかの発見もあったし、相手方にも多少の示唆や発見を与えることができたと思う。

しかし、これは日頃僕が友人たちと行っている会話や議論と、質的にはまったく変わらない印象だった。あっけないほど、特別なことではなかった。

考えてみれば、僕たち素人の勉強ということは、専門の学者の研究とは違って、対象や外界に対する認識を積み上げるだけではなく、それ以上に、自己認識を伴うものだ。むしろ自分の認識を掘り下げることを通じて、対象の理解を深めるような、と同時にその反対でもあるようなプロセスということになる。

つまり、いつも自分たちでお互いのカウンセリングを行っているようなものだったのだ。それで、僕がつねに何らかの勉強の集まりを必要としてきた理由、そして何とかたどたどしく今まで生きてくることができた理由がわかるような気がした。