大井川通信

大井川あたりの事ども

仏教書とビジネス書

仕事や日常生活で使う必要がなかったせいか、今に至るまで英語がまったくものになっていない。ときどき学習しなおすといっても、受験英語の焼き直しにすぎない。やさしい小説を読もうとしても、三日坊主で終わっていた。

それでしばらく前に、いい勉強法を思いついた。薄いビジネス書を読むのだ。内容も想像できるし、語彙も限られているから、なんとか読める。僕のようなへそ曲がりは日本語のビジネス書は斜に構えて手に取ったりしない。しかし、仕事をする上で有用な実践知が書かれているのも確かだ。

英語の学習と、苦手な実践知の習得という一挙両得の効果がある。そのためか、こちらの方は何とか、ほそぼそ、とぎれとぎれで続けることができている。

これはまったく偶然のことなのだが、昨年くらいから、それに薄い仏教書を読むという課題が付け加わった。仏教書も、日本語だと抹香臭くて抵抗感があるが、英文だとそのシンプルな本質がじっくり受け取れるような気がする。いくつかの専門用語を理解すれば、あとはその繰り返しや変奏となるので読みやすい。それで尊敬する仏教者の訳した本を少しづつ読み進めていた。

かたや俗にまみれたアメリカ人のビジネスマンの指導書、かたや清廉な仏教者の思想書だ。日本語で読んでいたら(いや日本語ならそもそも読まないが)、まったく別の世界に属する言葉と見なしていただろう。

ところが、英語でたどたどしく意味をとるということは、異世界の文化を謙虚にのぞき見る、という姿勢をとることになる。大げさに言うと、別の惑星で異星人が営む世界の原理をそこの星で流通する資料から学ぼうというくらいの距離感がある。

すると、この二書が内容こそは違え、同じような思考法をとっており、あつかう分野は違うとしても指南書としての価値は等価ではないかと思えてきたのだ。このくらい「引き」で読めば、地球人の文明圏内の言説として共通点の方がみえてくる。

かたや、期限の引き延ばしという態度をしりぞけ、今すぐやれ、という実践的指令をとばして、そのさきにある成功を約束する。かたや、知識や自我を信頼する態度をしりぞけ、無知を自覚しろ、という実践的指令をとばして、その先の信心や浄土を称揚する。

かたや、近代という時代の単刀直入な実践的真理であり、かたや近代以前の世界におけるもっとも深い実践的信仰だろう。その当否はともかくとして、現在が近代が支配的となった世界であり、にもかかわらず、人間の生存が近代で覆いつくすことができないことも事実である。

もっと単純にいえば、人間は起きて寝る動物であり、昼間には多少とも理性や計画を発動させないわけにいかないのと同時に、寝入ったあとに理性や計画を放棄しないわけにはいかない動物なのだ。二原理的であるのが、人間の宿命なのだろう。

こんな発見ができたのも、英語力がおぼつかなさすぎることのおかげである。なにごとも流暢というのが万能ではないということか。