大井川通信

大井川あたりの事ども

塀のむこう

九太郎にとって、ドアの向こうの世界が、直接動物病院の診察室につながっているのではないか、と想像して面白がったが、これは人間にとっても同じなのではないか、と思い直した。

たとえば、僕のような郊外の住宅街の住人にとって、ドアの向こうには、住宅街を一歩外にでれば、旧集落の田畑やら神社やら里山やらが広がっている。それが本当のドアの向こうだろう。

しかし、かつての僕もそうだったが、自分の足元をかえりみることなく、ドアの向こうは、自動車を介して、都心の職場や繁華街やショッピングモールへと直結しているかのように暮らしているのだ。

一方、前近代の人々は、自分たちが住む土地に境界をもうけて、その外に対しては、特別な想像力を働かせていたのだろう。旧大井村でも、村の境界には、大きなクスが植えられていたり、お地蔵さんがまつられていたりする。

ボーダーレスとなった現代人に、原始の境界の感覚を鋭く突きつけた村野四郎の詩を思い出した。

 

さよならあ と手を振り/すぐそこの塀の角を曲がって/彼は見えなくなったが/もう 二度と帰ってくることはあるまい

塀のむこうに何があるか/どんな世界がはじまるのか/それを知っているものは誰もないだろう/言葉もなければ 要塞もなく/墓もない/ぞっとするような その他国の谷間から/這い上がってきたものなど誰もいない

地球はそこから/深あく欠けているのだ  (「塀のむこう」)