大井川通信

大井川あたりの事ども

テレビを記録するということ

ファミリーレストランでの勉強会の席で、目の前にいる吉田さんがみるみる見知らぬ人へと変わっていく。知り合って6年くらいになるし、その間いろいろな会合で顔をあわせることが多かった。特にこの一年間は、一対一で毎月5時間くらいは議論している。たいていのことはわかっているつもりだが、まさかこんなことをしている人だったとは。

彼は、何冊かの手書きのノートと紙の束を、テーブルの上におく。ノートの表紙には、いつからいつまでという西暦の日付が書かれており、中には、その間のテレビ番組の放映情報が、一定のルールで書きこまれている。紙の束の方は、いわば作業用の個票のようなもので、番組ごとにつくられて放映期間や出演者や内容等を書き込む欄があった。

吉田さんは、これがノートの一部であること、この作業は途中でとまってしまったこと、前回からテレビについてレジュメを書くようにしたので、思い出して段ボール箱から久しぶりに取り出したことなどを、すこし自信なさげに言う。吉田さんにとって、自慢できるようなものではないから、今まで話題にすることさえなかったのだろう。

僕は、子どもの頃の吉田さんが、テレビ番組を見ることだけでなく、それを記録することに情熱を燃やしたことを最近知って、驚いた。映写技師であり映画のプロである吉田さんは、テレビなど眼中にないだろうと勝手に思っていたのだ。

当時、テレビアニメの「宇宙戦艦ヤマト」の音声を録音してノートにセリフを書き写している友人は僕のまわりにもいたから、子ども時代の吉田さんがテレビ画面まで写真で撮影していたり、番組情報を編集するのに膨大な時間を使ったりしたという話にも、その徹底ぶりに驚くくらいだった。

しかし、吉田さんのテレビを記録したいという欲望は、とんでもないところまで肥大する。自分の好きな番組を手元に残すというところを超えて、放映されたテレビ番組に関する情報をすべて自分で記録に残しておきたいところにまで進んだのだ。

この作業を始めたのは、80年代に入ってからのようだから、吉田さんはすでに10代後半になっていて、テレビ漬けの生活からは足を洗い、映画をはじめとする様々なことにも関心が向いていたはずである。

にもかかわらず、吉田さんはテレビ番組全体の記録という作業にチャレンジする。唯一の限定は出身の大分県での放送開始以来の番組という条件だ。図書館に通い、マイクロフィルムから当時の番組表を出力する。それだけで、費用が何十万円もかかったそうだ。

当時はワープロもパソコンもない時代だから、記録の編集は手作業になる。各番組の個票をつくり、それをノートに落とし込むルールは、当時の吉田さんが独自に考えたものだろうから、ちょっとノートをめくったくらいでは、そこに記録されたデータの意味を読み取ることはできない。

この作業は、80年代の途中までの記録で止まってしまったのだという。残された資料は、まるでバベルの塔の残骸だ。しかし、仮にある時点までこれが完成していたとしても、その完成されたものがいったい何になるというのだろう。著作や研究論文として他者に見せたり、評価されたりする見込みもまったくないものだろう。

テレビというものへの無償の奉仕や献身としか、いいようのないものだ。吉田さんのその後の生き方や映画へのかかわりの原形を知ることができたような気がして、あらためて僕には及び難い人だと確信する。