大井川通信

大井川あたりの事ども

作文的思考と岡庭昇

大学2年生の時に、国立中央図書館の書架で岡庭昇の『萩原朔太郎』を手にとって読むことがなければ、僕は今にいたるまで、作文を書き続けることはなかったと思う。

それは、自分の頭で、自分の手持ちの言葉で、誰それの権威によりかかることなく、外の世界に向って異議申し立てをする文体だった。今ふりかえると、それは日本の文芸評論の伝統につらなるものだった。

マルクスニーチェデリダフーコーといった思想界の権威を読んだり語ったりすることが、初めての思想体験であったなら、僕は大学を卒業したあとに作文を書き続けることはなかっただろうと思う。

岡庭昇は、当時絶大な人気のあった吉本隆明を批判するなど論争好きで、論述に荒っぽいところがあったり、テレビ局に勤務していたりしたために、あちこちから批判されたりののしられたりすることの多い批評家だった。だから岡庭昇から影響を受けたことは、少しも自慢になることではなかった。僕は、自分の言葉で考えるしかなかったのだ。

実際に80年代以降の岡庭の仕事は、僕にもしっくりこないものとなって、彼の著作からは離れてしまった。しかし彼は、その後も社会批評や文芸評論を書き続けている。近ごろネットの古書で岡庭の本を少しずつまた集めるようになった。

彼からの「学恩」に感謝するためにも、僕が彼から受け取ったものが何であるか確かめるためにも、彼の後年の仕事を読んでみようと思っている。