大井川通信

大井川あたりの事ども

臼杵石仏に驚く

国東市に一泊して、さて翌日どうしようかと悩んだ。前日に国東半島は一人で堪能している。今日も再訪では刺激が少ない。それで足を延ばして臼杵まで行くことにした。別府、大分市の先の臼杵を訪ねる機会は今までなかった。石仏が自慢といっても、それなら国東半島で十分味わえる。

ところがこの認識はまったく間違っていた。石仏(摩崖仏)のレベルが圧倒的で、国東半島とは比較にならないほどなのだ。

魅力のある石仏であることは写真情報でわかる。しかし実際に行ってみて驚いたのは、その密度の濃さと集中度だ。ひとかたまりの見事な石仏群が4つ、小さな里山の斜面に並んで存在していて、遊歩道を歩くことで簡単にアクセスできるのだ。そこからは里山に囲まれたのどかな集落を見下ろすことができる。

石仏の尊顔は木彫と思えるほどに繊細で優美だ。しかし、身体の部分の処理は多く簡略化され岩の一部をなして風化も進んでいる。その対比が余白をいかす近代絵画のようで面白い。まるで岩盤から石仏が命をもってせり出してきたような印象なのだ。大陸の石仏群のような雄大さはないが、それに準ずる規模と日本的な繊細さを持っている。

国東半島の遺物は、大きな競合する勢力によって残されたものだろう。臼杵もそうなのかと思っていたが、その立地は、僕が普段歩いている旧大井村のような一村レベルのものということが意外な驚きだった。残念ながら見落としてしまったが、集落内には石仏を彫らせたといわれる長者と仏師の石像が残っているようだ。観光地としてきれいに整備されているが、全体的にのどかであくせくしたところがないのも良かった。

臼杵の中心部の城下町は、期待せずに立ち寄ったが雰囲気のよいところだった。かつてそこだけ島だったという城跡がシンボルとなって古い城下町を見下ろしている。街並みも良く残っていて、江戸時代の三重の塔があった。小ぶりだけれども、江戸の割にはとてもプロポーションがいい塔で、重要文化財になってもいいように思えた。

 

 

富貴寺大堂を観る

妻の送り迎えで国東半島に行く。メタルアートの先生のアトリエで、べっ甲アクセサリーのワークショップがあるためだが、その待ち時間、僕に自由時間ができた。国東半島は若い頃から好きで、何度も来ているので、いざ自由行動できるとなると行先に困る。そこで富貴寺に行ってみることにした。

先日、東京国立博物館金色堂展を観たので、あらためて平安建築の阿弥陀堂を観たいと思ったのだ。今まで何度か訪ねているが、今回も期待を裏切らなかった。

材が太く、作りが粗削りで堂々としている。規模は小さいが「大堂」と名づけられた理由がわかるような気がする。外回りの柱は太い角柱で、大きく面取りがしてあり迫力がある。中世以降の建築のように、穴を開けたり溝を掘ったりして柱を器用につなげたりはしていない。太い横材(長押・なげし)を柱の上部と足元にバンバンと打ち付けてあるだけだ。軒もおおきな舟肘木で支えられておりシンプルだが力強い。

軒から上は近年復元されたものだそうだが、優美に反った垂木と屋根の形状には少し違和感がある。素人考えだが、もっと直線的な意匠の方が、この大堂には似合いそうな気がする。

内部に入ると、内陣は丸い四本の柱(四天柱)で支えられ、天井も一段高くなっている。阿弥陀仏の周囲の壁や柱には、極彩色の浄土図が描かれており、今でもかすかにそれらを見て取ることができる。板壁と板戸で囲まれた堂内は閉鎖的で暗く、浄土図のほかには目を奪われるような意匠に乏しいから、浄土の世界に深く没入できるだろう。

平面は、前面が三間、奥行きが四間の縦長で、内陣の柱筋は外陣とはズレていて、外陣前方の空間が広くなっているのが、平安末のこの堂の工夫だ。今は仕切りが設置してあるから、内陣の周囲をめぐることはできない。

富貴寺を出た後、国東半島の中心に近い両子寺(ふたごじ)に向かう。ここで富貴寺大堂とそっくりな建物に偶然出会った。平成に再建された大講堂である。その名称とは異なり、阿弥陀三尊をまつった阿弥陀堂である。国東で阿弥陀堂を作るならやはり富貴寺をモデルにするだろう。さすがにやや線が細いものの、違いは外回りの柱が角柱でなく円柱であることと、組物が舟肘木でなく平三斗であることくらいだ。

堂内の印象も富貴寺と変わらず、内陣の壁画は極彩色の浄土図で、ここでは内陣の周囲を自由に歩くことができる。かつて阿弥陀堂では、阿弥陀仏の回りを歩きながら念仏する行がおこなわれていたという。僕は人がいないことを幸い、念仏を唱えながら、外陣を何周も歩いた。あこがれの空間体験が、思わず富貴寺大堂とそっくりな堂内で実現したのだ。

 

 

道玄坂の100年(つづき)

先月18日の父親の生誕百年の記念日の記事で、渋谷道玄坂のカフェでお祝いをしたことを書いた。その文を、次のように結んだ。

「渋谷にあふれる人の波を見ながら、この中に父のことを知る人が(僕以外)誰もいないということを、当たり前でありながらとても不思議なことのように思って、ぼんやりしていた。」

素人の作文とはいっても、ある程度の首尾一貫性や起承転結といったルールは大切だ。そのうえで、通り一遍でない独自の発想や切り口、感覚を盛り込む必要がある。渋谷のカフェでの感情の動きを反芻してなんとかひねり出したのが上の文章だが、その不思議さの中身について自分なりの答えがあるわけではなかった。ちょっとかっこいいことを言っただけではないか、と反省する気持ちもあって、ひっかかっていた。

ところが、井手先生の義理の父親(前平尾教会長)の3回忌のお祭があると聞いて、ふと閃いた。誕生日は僕の父親とさして変わらないものの、生まれ育った土地で大勢のゆかりの人々に祈られるというのは、父親とはまったく違う。

それから大井川歩きの経験が頭に浮かぶ。先祖代々の土地で暮らした人々は、その土地で聞き取りすれば、さまざまな記憶を呼び覚ますことができるのだ。大井川周辺の聞き取りで僕自身がそれを体験してきた。

つまりこういうことだ。かつての日本人の当たり前の暮らしの中では、100年前に生まれた人の記憶をその土地に住む人々の多くが保持しているという事態がごく自然だったのだ。土地の風景が一変し、そこに集まりごった返すすべての人が、100年前にここで確実に生まれた父親のことを知りもしないという事態は、この観点からみれば驚くべき不思議な出来事といえるのである。

 

 

 

父が書いたもの

あらためて考えてみると、父は書いたものをほとんど残さなかった。今のように誰もがSNS に手を出すような時代ではないから、一般の人が何かを書いて発信するということは稀だった。ただし、父は文学好きで、小説以外でも思想や詩歌、古典についての専門書も読み込んでいたし、原稿用紙や日記帳に書き物をしたり、短歌を作ったりしている姿を見たことがある。書くことを苦にしていなかったし、文章は巧みだったと思う。

勤務先の工場で、工場長クラスの人にあいさつ文を頼まれて原稿を作っていたこともあった。社内では出世を望まず平社員のままだったが、本好きのインテリという評価はあったのだろう。全国的な社内報に、顔写真入りで長めのエッセイを書いたことがある。

なんでも整理してしまう父親だが、さすがにその社内報は取ってあって、結局それが唯一の「遺稿」になった。数日分の日記の抄録という体裁をとって、季節の移り変わりや家族の様子、短歌集の感想などを交えた、実に達者な素人離れしたエッセイである。永井荷風の『濹東綺譚』が好きでよく朗読していたが、なるほど荷風張りの名調子だ。

知人が自分の父親の告別式参列のお礼に、小さな文集を作って配布したことが印象に残っていた。知人の父親が実績ある教育者だったからできたことだが、僕もそのアイデアをマネすることにした。

といっても僕の父が残したものは、この社報の文章と、手書きの原稿が一枚だけだ。行分けされた詩のような原稿は、葬儀の朝に、偶然中島敦の小説の一節を書き写したものであることが判明した。その二つの文章を、薄いグリーンの上質紙にコピーして、葬儀の参列者に配布することにした。

参列者は父親と付き合いの長い親戚がほとんどだから、手書きの文字と顔写真入りの古い記事で、父を偲んでくれたのではないかと思う。父も若干得意だったのではないか。

先月、渋谷道玄坂で父の生誕100年のお祝いをしたものの、父に関する情報の少なさに、もう少し自伝めいた記録を残しておいてくれたらと残念に思う気持ちもあった。十分書き残す力のあった人だからだ。しかし、そういう文章があったとして、果たして僕はそれを読んだだろうか。父親からもらった手書きの手紙はかなりあるが、今まで僕はそれを読み返すことはなかった。

親子とは、たいていそんなものなのだろう。僕は自分の書いたものを取っておく習慣があるから、紙ベースでもかなりの文章が残っているし、このブログ記事だけでも、すでに2500以上の記事がある。もしうまく伝われば、自分の子どもがそれを読んで、僕の人生を再構成する手がかりにはなるだろう。しかし、子どもはそんなことに興味を持たないだろうと思う。

それ以上に、僕自身も(特に子どもに)何かを残すという気持ちを持っていないことに気づく。自分の経験や過去を書いているとしても、それはあくまで自分のためだ。父がほとんど何も書き残さなかった理由が少しはわかった気がした。

今日で父が亡くなって18年。

 

 

 

 

 

 

柳川異聞

午後の空き時間を利用して柳川に行く。自宅から柳川まで自動車で行くとなると、かなりおっくうな長旅だ。しかし、職場のある福岡市から西鉄電車の特急に乗ると、驚くほど短時間で柳川に着く。特急は車両を揺らしてしゃかりきに飛ばすが、乗客はぼんやり揺さぶられているだけだ。

タイムスリップ、あるいはワープしたみたいな感覚で、西鉄柳川駅に吐き出される。みなれないごく当たり前の地方都市の駅前ロータリー。車なら、観光スポットに直行できるが、駅を中心に歩くというのも新鮮だ。柳川についての体内地図はまるで役に立たない。

大通りから一本引っ込んだ道沿いの老舗の元祖本吉屋に入る。創業天和元年(1681年)の、うなぎせいろむしの老舗だ。さほど大きな構えではないが、店内の雰囲気は長崎の名店吉宗に似て、歴史が感じられる。

大通りに出て駅の方に戻ると、川下りの水路と乗り場があるが、もう営業は終わっていた。隣に神社の鳥居があるのでのぞく、参道は広くて長く、両側の桜もまだ散っていない。三柱神社の境内は、高畑公園と一体になっていて、この地域の桜の名所だそうだ。外国人観光客の姿がちらほら目立つ。しばらく散策したあと、駅近くのカフェに寄って街の余韻を楽しんだ。

掘割も立花邸「御花」も白秋生家も訪ねることのない、僕にとってまったく新しい柳川だった。近頃覚えた美味しいパン屋さん「どんぐりの樹」を家族のおみやげに買いたいところだったが、そこまで足は伸ばせなかった。

まだ明るい筑紫平野を、しゃかりきに走る西鉄特急に揺られて帰る。

 

国東半島の電波少年

吉田さんとの勉強会「宮司の会」も今回で60回。コロナ禍等で出来なかった何回かをのぞけば毎月実施しているから、ほぼ5年続けたことになる。

2005年から始めた安部さんとの「9月の会」が、57回続いたので、それを越えることをぼんやり目標にしていたところもある。もっとも9月の会は、途中で長い中断があったりで10年以上かかってしまった。世代も志向も違う安部さんとの会は、どうしても一方通行的なものになりがちで、僕のモチベーション次第というところがあった。

宮司の会の方は、同世代という共通のベースがありながら経験や志向に大きな違いがあり、それがうまく互いのリスペクトの基になっていて、双方向的な学びが可能だという良さがある。有り難いことに、吉田さんの方も僕と同じくらい勉強会の意義を感じてくれているようだ。

僕は、それなりに関心の幅がひろく、あちこちからネタを拾って小文にまとめることは得意だけれども、探求は浅いし、持続力もない。一方、吉田さんは関心の幅が広いだけではなく、関心領域への打ち込み方や執着力は徹底しており、それゆえ容易にまとめにはいたらない。

吉田さんは、僕の小ネタをひろってそれをまとめる能力に関心をもってくれて、僕の方は、吉田さんの探求力に凄みを感じている、というわけだ。互いに自分にないものをリスペクトしているから、よい関係を維持できるのだろう。

僕は、会を重ねても新鮮なネタを提供することを心がけているが、それは意図的、自覚的なふるまいだ。ねらってやっていることになる。ところが、吉田さんはまったく「天然」の探求者なので、さりげなく話題にすることが、本人の意図とは関係なく僕を驚かせることがしばしばだ。

今回も、60回目にして初めて聞いてびっくりしたことがあった。

吉田さんが子どもの頃、地元大分のテレビ番組の全放送の記録を詳細にとっていたことは、勉強会の中ですでに驚かされたことだった。ところが、今回僕が国東行の話をすると、吉田さんは、中学時代、中国地方や福岡の放送局の電波を求めて、しばしば国東市の本家を訪ねていたのだという。国東半島は瀬戸内海に面しているから、他地方の電波が入りやすかった。

国東半島には鉄道がないので、約50キロ、自転車で片道3時間の道のりだ。記録用のテープレコーダーを荷台に括り付けて、週末の度に国東に通ったという。しまいには、学校をさぼってテレビを見るために本家に居続けたこともあったという。特に文句はいわれなかったが、納屋の一室をあてがわれて、体裁が悪いから町に出歩かないでくれといわれたそうだ。

同じころの年頃の僕が、いくらお寺好きといっても、自転車での遠出で記憶に残っているのはせいぜい片道15キロくらいで、それでも自分ではまれな大遠征と思っていた。どだい行動力と発想のスケールが違うのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『押絵の奇蹟』 夢野久作 1929

角川文庫で読む。久作の短編集の新刊や復刊が続々出版されており、角川文庫が夢野作品を手軽に数多く読めるシリーズになっている。

表題作のほかに、『氷の涯』(1933年)と『あやかしの太鼓』(1926年)が収録されている。『氷の涯』を筆頭に中編と呼べる分量があってよみごたえがあるが、どれも長すぎる、書きすぎる、という印象があって、自分がはたして久作ファンと言えるのかどうか疑いをもったほどだった。とにかく思いのままにイメージが浮かびいくらでも書けてしまう人だったのではないか。

『あやかしの太鼓』は出世作だが、乱歩が批判したことで知られる作品。作り手によって恨みの込められた謎の鼓という設定は、作者が芸事の世界に通じているだけに説得力があり面白かった。確かにストーリーはごちゃごちゃしすぎていてわかりにくいが。

『押絵の奇蹟』はその乱歩も激賞したものだが、僕には三作の中で一番印象の薄かった作品だ。歌舞伎役者と押絵作可家の婦人が思いあい、不倫の事実なく二人にそっくりな子どもが生まれたというのが「奇蹟」の内容だが、押絵はわき役を演じているだけで、乱歩のような押絵の幻想談を期待していたので多少拍子抜けした。文章も描写も悪くはないが、道具立ての割には長すぎた。

『氷の涯』が一番良かった。読み直すとしたらこの作品だろうか。シベリア出兵時の大陸の様子も珍しく興味をひくし、政治的な陰謀という謎の要素もある。主人公のキャラクターは性格的に複雑で意外性があり、主人公を助けるロシア娘ーも奔放で魅力的だ。

夢野久作の忌日(3月11日)に手にとったのだが、読了に手間取って今になってしまった。

 

 

 

こんな夢をみた(モンゴル人の陳情)

僕は市役所の職員のようだった。役所でモンゴル系の在留の人たちのグループからの陳情を受けていた。いろいろな項目があるが、目玉は、モンゴル人たちが工場をやっている土地の権利関係の問題のようだった。若い職員たちがそんなことを噂していた。

現場に行くと、そこは僕の良く知っている図書館で、その裏の土地にモンゴル人たちの質素な作業場があった。裏の土地に行くには、図書館の入り口を経由しなければならない。今そこが使えなくなっているために、工場の稼働がストップして危機的なのだということだった。

市の方が目的外使用許可を出すのは時間がかかると、この問題の責任者らしき男が説明をしている。しかし図面をよく見ると、モンゴル人の工場に行くには、まだ別の私有地を通らないといけない。問題はさらにやっかいそうだ。

僕たちが交渉しているところに、モンゴル人のおばさんがやってきて、ニコニコして話し出す。他の職員たちも良く知っている人らしく、愛想よく応じている。こういう関係性はいいなと思った。

 

サークルあれこれ(番外編:教育研究会)

記事が遅れがちになり、東京旅行もはさむことから、ある程度回数を稼げるテーマとして苦し紛れに「勉強会・読書会・サークル」シリーズを書き始めたのだが、自分の学びを振り返るよい機会となった。ちょうど新年度から、自分の学びを更新し、ブーストをかけたいと願っているところでもあったので。

いよいよシリーズ最終回。今まで記事にするのを避けてきた仕事がらみの勉強会だ。

僕は、退職までは教育行政にかかわる事務屋をしていた。50代になるとポジションがあがって教員の人事にかかわる権限のある仕事をしなければいけなくなった。県内のある地域の小中学校の先生にかかわる人事だ。

事務屋だから教育の現場のことは実際にはわからない。教員の本音も知らないし、実際にどういう先生がいい先生かもわからない。ただ、教育行政にかかわるような優秀な先生たちとの会話から、彼ら彼女らが自主的な勉強会で鍛えられているという情報を得たので、教師の各種の勉強会をやみくもに見学して回ることにしたのだ。

勉強会には自分でも親しんできたし、自主的に勉強する人たちへの共感もあったから抵抗はまったくなかった。行政の身分で突撃すると警戒をされることもあったが、それ以上に歓迎されてその場で得ることも大きく、参加を後悔するような会はなかった。

2015年の一年間で、自分の担当地域で活動している勉強会には、情報があるかぎりすべて参加したので、それらの成り立ちがいくつもあることに気づいた。その「研究成果」を翌年度当初の管理職相手の研修会で発表して、勉強会のすすめを説くことができた。およそ行政のスタンスとは異なるものだったが、当時教育行政の流行語が「主体的で対話的で深い学び」だったから、教師自身が主体的で対話的な学びの場所(つまり勉強サークル)をもたないで、そのことを子どもに教えられるのかという私見が一定説得力を持っていた気がする。

この教師の勉強会への参加は、僕にいろいろなものをもたらした。一つは、熱心な教師たちに対する尊敬である。少なくとも僕の周囲で自主的にこんなに勉強している行政マンなどいなかった。このことは、結果として教師、管理職、教育長たちからの信頼を得ることに結果して、ポンコツ行政マンが何とか管理職としてのマネジメントを定年まで全うすることにつながったと思う。

もう一つは、レベルの高い学習会やメンバーから刺激を受けて、学びの仲間を得ることができたという点だ。今学芸大にいる大村さんも、この学習会訪問で知り合ったメンバーだ。彼からは今でも大きな刺激をもらっている。

 

 

 

 

 

 

先生たちの勉強会

サークルあれこれ(番外編:哲学講読会)

かつてあった哲学の勉強会の話。

今から10年以上前、数年間(2014~2016)にわたってとびとびで地元の哲学カフェに通った。今人気の哲学風議論のカフェではなくて、哲学書の翻訳文を月二回地道に読んでいく会だった。主催は、在野の哲学者にして市民運動家の清水先生。ドイツ留学の経験がありフィヒテの研究で博士号をもっている本格的な哲学者だ。

最初はカントの平和論を読んで、次はヘーゲル法哲学を読んだ。正式な哲学教育を受けたことのない僕には勉強になる会だった。本文を順番に朗読したあと質疑の中で清水先生が「正解」を説明するという厳格なスタイルだった。ただし、市民運動家としての顔をもつ主宰者は机上の学問を嫌うのか、「政治思想カフェ」を名乗っていて、哲学を読むことは人が集まるためのきっかけと考えているようだった。

メンバーは20代から70代まで。読書会がメインのメンバーはそうでもなかったが、清水先生の知り合いは、各方面の市民活動家が多く、権力批判的なスタンスを自明なものと振り回す雰囲気が濃厚で、それもあって自然に離れていってしまったと思う。

今でも時々街で清水先生と顔を合わせて挨拶することがあるが、勉強会のあったカフェを拠点に子ども食堂をやったり、市民向けの寺子屋を開いたり、実践家としての活動を継続している。尊敬すべき先輩であることには変わりはない。

それより少し前、2011年に、現代美術家の外田さんとその友人のキュレーターの岩本さんと三人で哲学書を読む読書会をしたことがある。安部さんを通じて面識があった外田さんから『菜園だより』の出版記念会で声をかけられたのがきっかけだったと思う。その頃北九州芸術劇場に勤めていた岩本さんには同じころ、多田さん演出のワークショップでお世話になっていた。

テキストは、ドゥルーズ=ガタリの『ミルプラトー』とフーコーの『監獄の誕生』。海外の大学で哲学を学んだ岩本さん主導のレベルの高い会だった。ちょうど安部さんとの9月の会が中だるみしていたころで、一年ばかり熱心に続けたが、仕事も忙しくなった僕が息切れして自然消滅してしまったと思う。

安部さんの遺稿集作成で久しぶりに再会した外田さんから、東京在住の岩本さんを交えてネットを使って会を再開しないかという提案を受けている。二人とも多忙な人たちだだからどんな形で再開できるかは未定だが、ありがたい話だ。