大井川通信

大井川あたりの事ども

『海と毒薬』 遠藤周作 1957

読書会の課題図書で読む。再読。

第一章のエピソードで、勝呂医師の指先に「金属のようにヒヤリとした冷たさ」があったとある。生体解剖事件に関わった冷酷な医師であることを匂わせるうまい伏線だとは思うが、全編すこし図式的に作りこみ過ぎているような気もする。

特徴的なのは、人間を自由な選択の前に立たせて、悪事の踏み絵を踏ませるような設定。しかし、これは日本の社会や組織の中に無理やりにねじ込まれた設定で、かなり不自然なものに感じる。

日本の組織では、どんな決定も個人の自由意志にゆだねられることはない。上層部ですら阿吽の呼吸でことが進むし、末端の構成員ならなおさら知らぬ間に事態に巻き込まれるだけだ。しっかり選択した者がいないからこそ、誰も責任をとらないという「無責任の構造」が成立するのだろう。昔読んだこの事件のドキュメンタリーの方が、このあたりのリアリティを押さえていて怖かったと記憶する。

自分たちの街を焼き払い大量虐殺する敵国人に対する当然の憎悪が描かれていないのも、「自由な選択」を仮構するためのトリックだろう。

ほったらかしたら何をするかわからない人間というものをコントロールする仕組みとして、良心や罪の意識を使う西欧のやり方と、世間の目や罰を使う日本のやり方で、どちらに優劣があるわけでもないと思う。片方からみれば片方が奇妙で変に見えるだけだ。西欧人は、けっして自分たちが「世間の目」を恐れないのはなぜなのかと煩悶したりはしないだろう。

この本だけでなく戦後まもなくの小説を読むと、中国で人を犯したり殺したり、それを自慢したりさえする人間がいたことが、ごく当たり前のように描かれている。こういう時代背景の記述こそ、貴重である気がする。

 

 

ジュニア版日本文学名作選『怪談』 小泉八雲 1965

子どもの頃にお世話になった偕成社のシリーズで、小泉八雲(1850-1904)を読む。「耳なし芳一」も「ろくろ首」も「茶碗の中」もとてもいい。懐かしいだけではなくて、とても面白く色あせていない。「盆踊り」について書いたエッセイも読ませる。

西欧人からの古き良き時代の日本へのまなざしは、驚きや愛情とともに、適度な距離感を保っているから、現代の日本人が読んでも共感できるところが多い。たぶん柳田国男をきちんと読むような機会は僕にはこれからないだろうが、小泉八雲はできるだけ読んでおきたい気がする。

ただ実は、僕が子どもの頃読んだ小泉八雲のアンソロジーは、偕成社のものではない。もう少し以前の確かポプラ社の本で、従兄からもらったものだったと思う。偕成社版より作品がよかった気がする。

それには果心居士(かしんこじ)という不思議な術を使う老人の話が入っていた。屏風に描かれた湖の水を座敷にあふれさせて、画中の船に乗り込んで、そのまま絵の中に消えてしまうというラストが好きだった。

平家蟹という関門海峡で採れるカニのデッサンの挿絵があるエッセイもあって、そのカニは没落した平家の怨霊が乗り移ったような怖い顔つきの模様を背負っている。「耳なし芳一」の怪談とセットでのっているのがよかった。

 

『つながる図書館』 猪谷千香 2014

図書館司書の勉強をした関連で手にした本。いくつかの実際の図書館のレポートと、図書館をめぐる動向とが、コンパクトにまとめられている良書だ。

今、図書館は大きく変わりつつある。身近な図書館を利用しているだけでは、そこが先進的な取組みをしている図書館でもないかぎり、その変化にはなかなか気づけない。

市民への貸出サービスを第一に考える取組から、課題解決支援に重点を移したり、地域コミュニティーの核となることを目指したりする方向へ。そこにICT化への対応が重なってくる。

この本で紹介されている、東京都武蔵野市の武蔵野プレイスと佐賀県武雄市図書館とを昨年訪ねてみた。どちらも居心地がとてもいい場所になっていて、確かにこんな図書館が近所にあったらいいだろうと思う。武蔵野プレイスは40年以上前に僕が通った高校の近くにある。まさに隔世の感だ。

しかし、どんないい図書館でも身近になければ意味がないし、そもそも図書館がなければ情報にアクセスしたり本を読んだりすることができないわけでもない。今回の勉強で図書館界なんて言葉を初めて知ったが、専門家の垣根を感じさせて、ちょっとひいてしまった。

本も情報も、図書館や書店や学校から、そとに流れ出し、自由に離合集散するような流れにある。ネットの読書会などに参加してみて、特にそれを感じる。最新型を誇る図書館ですら過渡期の産物であることを免れないだろう。

 

 

『教師崩壊』 妹尾昌俊 2020

公教育の現状の全体について、バランスのよい説得力のある議論を示している。誰もが気楽に手に取ることができる新書版では、ほとんど初めてのことではないか。

データとファクトに基づいて議論をすすめているが、特別な情報を使っているわけではない。少し注意深く周囲を見回せば、多くの人が手に入れることができる情報に基づいている。

「教師が足りない」「教育の質が危ない」「失われる先生の命」「学びを放棄する教師たち」「信頼されない教師たち」という五つのティーチャーズ・クライシスをとりあげ、それらがもはや解きほぐせないほどからまりあいながら、教育をめぐる問題を構成していることを指摘する。

このきわめてまっとうな問題設定からみると、従来の教育に対する様々な批判が、問題のごく一部を切り取ったもので、構造的な解決を視野に入れていないものであることが良くわかる。

解決の大きな方向性は、学校・教師への負担や積み荷を軽くしていくことしかない。そのためには、何か新しい問題らしきものが見つかるたびに、学校・教師を批判し、現場に新しい課題を投じて事足れりとする思考法を、国も社会も我々も改める必要がある。こう考えると、たとえばコロナ禍による9月入学の提唱が、いかに的外れなものであるかがわかるだろう。

筆者は、教育畑の出身者ではない。だからこそ、全体が良く見えるのかもしれない。しかし、この全体像は、教育関係者なら多くの人が薄々気づいていたことだ。それを公共の問題として提示することを怠っていたのだといえる。教育の外にいる人たちも、教育の現状を直視することをサボタージュしてきた。

我々の教育を見る目はくもり、ゆがんでいる。そのことに暗澹となる。

 

 

『夢野久作 迷宮の住人』 鶴見俊輔 1990

ドグラ・マグラ』を一気に読み切った余勢をかって、15年前に購入したこの本の文庫版を読んでみた。

夢野久作(1889-1936)に関する諸事実をひととおりおさらいするのにはよかったが、夢野久作や『ドグラ・マグラ』のことが深く分かった、という気はしなかった。そうとう昔のことだが、鶴見俊輔の書いた竹内好の伝記を読んだときもそんな感じがした記憶がある。

独特の文体を含めて、顔を出すのは、鶴見俊輔なのだ。久作を語っても、鶴見俊輔の思想の方法や体質がにじみでてしまう。国家と距離をもち地方と民衆に根差した個人の思想をたたえる鶴見節が、やや鼻についてしまう。

夢野久作の次男の三苫鉄児さんの記述もあって、懐かしかった。以前、福岡水平塾というサークルのメンバーとして、お付き合いさせてもらったことがある。津屋崎の玉乃井の会合で、まだ赤ん坊だった次男を抱いてもらった思い出もある。夢野久作が子どもに話したというおとぎ話のことなど、思い出をお聞きしておけばよかったと、今になって思う。

あとがきまで読んで、こんな一節にぶつかる。『ドグラ・マグラ』のさまざまなモダンな解釈とは別に、この作品の「ひなびたところ」を大切にしたいと鶴見は言う。

「複雑精緻な『ドグラ・マグラ』にしても、その循環構造は案外に、もうろくの中におちこむ人間の自然のなりゆきであるかもしれない」

こう書いて、久作が93歳の祖母の前で何度も同じ謡曲をうたわされたエピソードで、この本をしめくくるのだ。こんな指摘にこそ、鶴見の批評眼が宿っているのだと思った。

 

イタチ木登り、タヌキ危険、カッコウ鳴く

職場の窓から、目の前の林を眺めていたら、高い枝をイタチが伝っている。すぐに方向を変えて、根もとまで走りおりてしまった。あわてて外に出てみると、ずっと先の茂みがゴソゴソしている。その神出鬼没ぶりに驚いた。

また別の日。通勤の車で、街中のコンビニの駐車場から何かが飛び出し、目の前を横切るので、反射的に軽くブレーキを踏む。タヌキだった。ほんの少しのタイミングの違いで、ひいていただろう。こんな向こう見ずな飛び出しをしているから、タヌキの交通事故死が起きがちなのだろうと思った。

職場の駐車場に、カッコウカッコウという鳴き声が響きわたっている。あまりにも有名なカッコウの鳴き声が、目の前の丘の森から聞こえている。とっさに、スピーカーからの音じゃないかと思った。カッコウを聞く体験が、ほとんどメディアを通しての人工的なものだから、実際に聞いても、つくりものに思えてしまうのかもしれない。

平地で、日常生活のなかで、カッコウを聞くのは初めてだった。大井川歩きで聞けたら、素敵だろうと思う。

『ドグラ・マグラ』 夢野久作 1935

読書会の課題図書で、およそ40年ぶりに再読する。ところどころ覚えていて、大学生の時、読み通したことは間違いない。いつか読み直したいと思っていたので、飛び入り参加となる会のために、かなりのスピードで一気に読んだ。

期待以上に面白く、よくできた重厚な小説だった。これほどの作品では、若いころは受け取めきれなかっただろう。議論のために論点のメモを作っておこう。

まず、題材や発想のスケールが大きく、型破りのようで本格的だ。狂気への着目や、精神医学への批判は、近代という時代や理性という価値を相対化するのに重要な視点で、思想的にはるかに時代に先駆けている気がする。

思考は脳髄の機能なのではなく、全身の細胞を通じての関係のネットワークの所産であるという考え方も、今ではむしろ正論だ。

「細胞の記憶」というと荒唐無稽のようだが、DNAの存在を先取りした発想といえるかもしれない。因果応報や輪廻転生を「心理遺伝」の科学で解き明かす、という構えも、東洋思想を巻き込んで雄大だ。

文体や性格の異なるさまざまなテキストを並べた構成も、実に魅力的。新聞記事やインタビュー、調査報告書に遺書、古文書まで。この小説自体が、作中で精神病棟に資料として展示されている患者の作品であるかのような示唆まであって、それなら全体が部分に吸収される入れ子構造ということになる。各テキストの関係はゆらいでおり、次々に新しい解釈が投入される。

このためメインのストーリーはあるかに見えても、どれが実際の現実なのかは一義的に決められない。重要な登場人物である正木博士と若林博士も、別々のテキストで各々が一方的に語るばかりで、二人が現実にからみあう場面はない。しょせんは書かれた文章のつぎはぎであるという小説の可能性を存分に活かしているようだ。必ずしも正解や種明かしのない叙述トリックという感じ。

第一の事件は直方の日吉町、第二の事件は福岡の姪の浜、唐津虹ノ松原が因縁の場所、九大病院が主な舞台と、なじみ深い地元の地名が出て来るのは、それだけでうれしい。

主人公の青年は、ある瞬間以前のエピソード記憶をすべて失った人物として描かれる。明らかに何者かであると推測されながら、その記憶が欠如しているという彼の不安が作品の基調になっている。さらに、二人の対立する博士のそれぞれの言い分によって、世界のありようも大きくゆらいでしまい、主人公の時間・空間の見当識がゆがんでいく描写はリアルでこわい。

しかし、世界から剥がれ落ちてしまうような主人公の特異な境遇と恐怖を、読者がたやすく追体験できてしまうのは、なぜなのだろうか。作品のどこかに書いてあったように、夢中になる、我に返る、現実を取り戻す、という日常当たり前の体験のサイクルが、すでに僕たちをある深淵に突き落としているためかもしれない。

 

自分の猫が幸せならそれでいい

直近の芸能ネタにこんなのがある。ある芸能人が、仕事も順調で、誰もがうらやむ年下の美人女優と結婚し、子どもにも恵まれたにも関わらず、自分の性癖からなのか複数の浮気が発覚し、成功を失いかけている。

ネットでの芸能ニュースにはたくさんの読者のコメントが書かれるが、これはその一つ。この芸能人のように人間の欲望は際限がないのだろうが、自分は、自分の猫が幸せならそれでいい、というもの。

言外に、仕事にも友人や恋人にも家族にも恵まれていない、という境遇がうかがわれて少し切ないけれども、やせ我慢でも開き直りでもない、しみじみとした確信と覚悟とを感じさせる言葉だ。

ここから二つにことを学ぶことができる。一つは、人間が、誰かの幸せを願わずにはいられない存在であるということ。最低限、その欲望から逃れることはできないということでもある。

もう一つは、幸せを願う他者として、猫はとてもふさわしいということだ。これは、僕も猫を飼うようになって実感するようになった。

猫は、最低限の世話をしてあげれば、それ以上、散歩も遊んであげることも必要ではない。飼い主の振舞いに影響されることなく、独立して自分の幸せを確保しているように見える。

人間を相手にするときのように、相手の感情に一喜一憂して振り回されることがない。言葉や表情の裏側を読む必要がない。しかし、人間と同じように、いやそれ以上に、猫からは確かな生存の充足を感じ取ることができる。

 

『尾崎放哉句集』 岩波文庫 2007

詩歌を読む読書会の課題図書。こんなことがなければ手に取る本ではないと思いながら読んでみると、意外な発見があった。

自由律俳句で有名な尾崎放哉(1885-1926)は、東京帝大法科卒のエリートで、保険会社に入社するも挫折し、結核を患ってのち、小豆島の寺の庵で世を去った。

小豆島は一昨年に家族旅行をしている。調べると、尾崎放哉の終焉の地は、僕たちが宿泊したホテルのほんの近くで、その時は庵の所属する西光寺を見たし、そのあたりの迷路のような街並みも歩いていた。その時は関心がなくて、尾崎放哉記念館に足を延ばさなかったのが悔やまれる。

ただ、立てこんだ街並みと、狭い入り江と、波一つなくベタっと動かない瀬戸内海の印象は残っているから、次の句の情景は想像できる。

「漁船ちらばり昼の海動かず」

「漬物石になりすまし墓のかけである」

大井川歩きで、古墳の石を庭石に転用した話も聞くので、墓石の欠片が漬物石に化けることもあるだろう。

「鳩に豆やる児が鳩にうづめらる」

公園で見かける情景。鳥好きとしては、鳩がトラウマにならないか危惧されるが。

「蛙蛙にとび乗る」

交尾の時期だろうか。カエルがカエルの背中にしがみつく。その様子を漢字二文字を縦に並べることで、巧まずして視覚的にも表現しているのが面白い。おっとこれは横書きのブログでは伝わらないか。

 

カマドウマとゲジゲジ

子どもの頃使っていた小学館の『昆虫図鑑』を手に入れてページをめくっていると、昔実家でよく見かけた虫のことを思いだした。

よくトイレで見かけたカマドウマ。バッタの仲間だろうが、羽のない背中が丸く盛り上がっている姿は不気味で、好きになれなかった。つるっとした茶色の身体も、なんだか虫らしくない。

昔の実家にはふつうにいたけれども、トイレを水洗に改修してからは見かけなくなった。大人になってからの生活では、全く出会うことはなくなった。

実家の庭には、体長二センチくらいの小さなミミズのような細長い身体にたくさんの足がある生き物がいた。色合いはやや赤みががっていて、渦巻きみたいに丸くなる特徴がある。こう書くと不気味なようだが、とても小さいし、ふつうにたくさんいたので、気持ちわるいとは思っていなかった。

我が家では、この生き物を、ゲジゲジと呼んでいた。千葉出身の母親からの知識かもしれない。しかし、これが本当のゲジゲジではなく、ヤケヤスデという生き物であることは、図鑑で気づいていたと思う。しかし、この「ゲジゲジ」にも、大人になってから、ほとんどであったことはない。

図鑑でしかみたことのない本物のゲジゲジに出会ったのは、ごく近年のことだ。大井のひろちゃんに家の座敷を、足が異様に長いムカデのような生き物が悠然と歩いている姿を見つけたときは衝撃だった。