大井川通信

大井川あたりの事ども

物置部屋のコレクション

僕は本を買うのが、唯一の多少のぜいたくだから、家のあちこちに収納のための本箱が置いてある。二階の物置部屋にスチールの本棚があって、その一番上の目立つ棚は、一段全部が、ずらっと岡庭昇の著作のコレクションだ。ざっと40冊ばかり。全著作ではないが、初期を中心に晩年にいたるまで主要な本はおさえてある。

岡庭昇は、今となってはマイナーな批評家だが、大学時代の僕にとって彼の70年代の仕事は、批評を読むことの面白さを教えてくれたものだった。当時、彼の本を古本屋で見つけることに情熱を注いだりもした。大学の後半になると、ポストモダン現代思想の流行に巻き込まれ、次第に岡庭の本を読むこともなくなり、せっかく集めた著作の一部も処分してしまった。岡庭自身は、80年代、90年代、00年代とコンスタントに仕事を続けるが、やはり70年代の刻印を受けた批評家だったのだと思う。

岡庭の本をまた集め出したのは、近年、ネットで状態のいい古書が安価で見つかることに気づいてからだ。かつて手に入らなかった初期の二冊の詩集や『椎名麟三論』も、最後の著作である『藤沢周平論』も手に入れることができた。書棚の一段が埋まることを区切りとして、僕の岡庭コレクションは完成した。

物置部屋をのぞき、このコレクションをながめるとき、僕は自分の大学時代を思いだし、甘酸っぱい気分に浸ってしまう。そうしてあれこれ思い出す。文学部でもなく、文学仲間もいなかった僕が、現代詩というニッチなジャンルに入門することができたのは、岡庭昇の詩論が手引きとなったからだった。詩は、今でも僕の生きる支えの一部にはなっている。岡庭さんの学恩に感謝。

 

 

 

 

こんな夢をみた(死仮面)

ギャラリーのような白い壁面に囲まれた部屋で、僕は死んだ人の顔の皮をていねいに壁に並べてはりつけていく。こう書くとひどくグロテスクのようだが、実際に顔の皮というのは、白いビニールみたいな材質で、眼鼻口の部分に穴が開いた個性のないもので、少しも本物らしくはない。

ただ、夢の中ではそれを本物として扱って、端からせっせと張り付けていくのだ。これは災害の被害者のもので、遺族が見に来た場合に探しやすくするために、ボランティアとして作業にかかわっているみたいだった。

部屋にお偉方のような人(あるいは評論家かマスコミ関係者か)が入ってくると、顔を背けながら、あれこれ言葉だけはかける。僕は、内心、だからこういうやつらはダメなんだと思いながら、これ見よがしに作業の手を速めた。

 

通りすがりの女に

朝からコメダ珈琲で、ボードレールの『悪の華』をしこしこと読む。この訳詩集の中に、「通りすがりの女(ひと)に」というタイトルの、こんな詩があった。

街中で、一瞬、喪服姿の美しい女性とすれちがう。彼女の瞳に、「魂を奪うやさしさ」と「いのちを奪う快楽」とを見て取って、ボードレールは稲妻に打たれたように立ちすくんだ。彼女には二度と会うことはない。しかし、自分は彼女を愛したはずだし、彼女もそれを知っていたはずだ!

という、なんとも現実離れした自信過剰の妄想の産物である。さすが詩人。ところが現実はこうはいかない。

その時コメダ珈琲の隣の座席には、小さい可愛い男の子をつれた若いお母さんが座っていた。僕は子供が好きだから、二人のなごやかなやり取りを、本を読みながら無意識に好感をもって聞くともなく聞いていたのだ。

親子が会計で立ち上がったとき、僕はつられて彼女をちらっと見上げてしまった。正直に言えば、ボードレールと同じように、若くてきれいな女性に目を奪われただけだったのだ。ただ、その目つきが悪かったのだろう。

彼女は、すまなそうに身をかがめて、子どもがうるさくてすいませんでした、と小声でささやくと、足早に立ち去ってしまったのだ。

彼女にはおそらく二度と会うことはないだろう。しかし僕の好意は永遠に理解されることなく、子育てに無理解な偏屈な中高年の代表として、彼女の記憶に刻印されてしまったのだ。


 

りぼんちゃんのやってきた日

九太郎に続いて、二匹目の猫が我が家にやってきた。7月7日の七夕生まれだから、生後半年になる。秋の雑木林のような、はなやかな体色をしている。あるいは、そこから抜け出してきたリスのようだ。おでこに縦にミカン色の模様が目立つ。

キクイタダキ(菊戴)という小鳥がいる。頭の上に菊の花びらを一枚載せたような黄色が目立つかわいい鳥だ。人なつこく、僕も二度ほど近くの枝に降りてきたのを見たことがある。一度は太宰府天満宮の境内だった。僕は、この猫を初めて見た時、キクイタダキに似ていると思って、すぐに気に入った。

前のお家では、猫バスというあだ名をもらっていたが、妻はおでこの蜜柑色をリボンに見立てて、りぼんという名前がいいという。僕は、妻のネーミングセンスに敬意を抱いているので、そくざに同意した。

二匹目の猫を飼うことには迷いもあった。九太郎を家族に迎えることで、思ってもみないような素敵な暮らしを体験できたという事実がある。複数の猫がいる生活も、きっと想定外の喜びをもたらしてくれるだろう。余計なおせっかいだろうが、なにより九太郎にとっていい相棒になってくれたらと思っている。

二階の僕の部屋に新しいゲージを設置したので、こうしてブログを書く背後で、りぼんちゃんがしきりとニャアニャアと話しかけてくる。それだけで新鮮な気分。

 

 

雪道と前輪駆動車

地球温暖化のせいか、もともと雪の少ないこの地方でも、近年ますます雪が降らなくなっている気がする。年に一回か二回、それも印象に残らないくらい薄っすらだったり。

ところが、今回は大寒波の襲来で、大雪が降ると天気予報がいう。予報通り、一日目は午後から降り始め、用心して早めに職場を出たものの、峠道には真っ白に雪が積もっている。ただ、車輪のわだちの雪は解けていて、道路が露出し、まだ氷ってもいない。

しかし、雪にめったに出会わない地方の人間の悲しさ、何を警戒しているのか、車はのろのろとしか進まない。雪国の人が見たら笑われるだろうと思いつつ、自分もおっかなびっくり運転する。

二日目は、自動車をあきらめて、JRで通勤する。職場のある街に近づくと、(トンネルを抜けたわけではないが)そこは雪国だった。街中でも5センチくらいは積もっていた。

この時期の車の話題は、スタッドレスとかチェーンとかの話になるが、僕は運転を始めて以来、どちらの装備も持ったことがない。それで何とかやれているのだ。今回も雪道を走るとき、前輪駆動(FF車)だから大丈夫と自分に言い聞かせていた。

僕が若いころは、前輪駆動が普及し始めたころだったから、それが雪道に強いことがメリットとしてうたわれていたと思う。この技術が当たり前になると、誰も今さらそれを言う人はいない。しかし、そのメリットが事実として消えたわけではないはずだ。

荷重のかかる前輪を駆動して車体を引っ張るわけだから、上手に運転すれば滑るわけはない、となけなしの知識を動員して自己暗示をかけて車を走らす。

 

『日本はどこで間違えたのか』 藤山浩 2020

著者は1959年生まれ。ほぼ同世代だ。1960年代から10年ごとに日本社会の進行をコンパクトにまとめて、各時代の特色と問題点を明確に指摘する。著者の個人史も交えての論述は、僕自身の生きた同時代の解説でもあるから、興味深く、ありがたかった。

その分析の視角は、高度成長以降の「大規模・集中・グローバル」への傾倒に対して、「小規模・分散・ローカル」の軸を取り戻すというものだ。コロナ禍の現状は、前者の文明の設計原理の行き詰まりを意味する。

著者は、「地元」から社会を社会を再構築するビジョンを大胆に提示する。これは地域社会の基本設計を「三層の循環圏」として提案し、その転換に向けて30年の工程表を示すという具体的なものだ。中山間地域での実践、研究を足場にすえた議論なだけに、単なる絵空事とは感じさせない説得力がある。

地元の生活圏で、ただ歩き、観察し、話し、空想しているだけの僕にとっても、自分のささやかな営みの後ろ盾をえたようにも思えたし、今後に向けてのあるべき理念を得たような気がした。一方、この社会に長い間どっぷりつかって生きてきた体感からは、理念に基づくドラスティックな改革を主体的に遂行する力が我々にあるとは思えないのも正直なところだ。

たしかに日本社会は今まで大きな変革を経験したきたが、それらは外からの強制をきっかけとして、欲望の自然な拡大を原理として成し遂げてきたものに思えるからだ。

とはいえ、終章での著者の同世代への呼びかけは、胸にこたえた。君たちは、比較的楽に就職して、楽に仕事をし暮らしをしてきたのではないのか。この社会の現状に対しては、2010年代に責任ある立場にたっていた君たちが、どの世代よりも直接の責任があるのではないか。老いや衰えや疲労は仕方ないにしても、自分の志と才能と努力に軸足を置いて事をなすには、まだ十分な時間が残っているのではないか。

この叱咤激励の声を聞けただけでも、この本に出会えてよかったと思う。

 

ぽけっとがいっぱい

 長男が幼児の頃、ポケットが大好きだった。本人のリクエストで、ズボンには、母親が追加のポケットをいくつも縫い付けていた。

ウルトラマンの変身アイテムや、ピストルみたいな武器を、ひとつひとつそこにいれるのだ。それで家の中では、自動車に見立てたテーブルに座って、おもちゃのハンドルを握りしめて、怪獣退治にでも出かけるつもりだったのだろう。

そんなことを僕はすっかり忘れていた。

一年前に長男が家に戻って、たまには家族で車にのって外出する機会もできた。そんなときの何気ない会話で、20年前の記憶を思い起こしたのだ。

記憶を生み出すのが日々の家族の暮らしならば、記憶を思い出すためにも、ともに暮らすことが必要なのだろう。

 

『ゲンロン戦記』 東浩紀 2020

病み上がりで今年初めて読んだ本。すらすらと読めて、さわやかな読後感が残った。読んでよかったと思った。

東浩紀は、10歳年下で、そのためか著名な批評家だけれども思い入れを持ったことがない。しかし、少し遅れて『弱いつながり』(2014)や『観光客の哲学』(2017)を読んで、とてもいいと思った。特に後者は、現代思想をベースとして、ここまでの認識を示すことができるのか、という驚きすらもたらした。何より不思議だったのが、その平明でくせのない文体である。

この文体が生まれる背景には、こんな現実との悪戦苦闘があったのか、と納得する。思想的なカッコいい闘争などではない。小さな企業の経営にまつわる、不格好で、かんちがいとその反省にあふれた、どうしようもない右往左往の記録である。

僕も若いころ、人文系の知や思想家にあこがれて、その精細な認識には特別な力が宿っていると信じていたが、やがて現実には無力であることを痛感せざるをえなかった。この本を読むと思想界のスターだった東浩紀の認識の力は、批評をテーマにした小グループの運営においてさえ、現実を扱う上でほとんど役立っていないことがわかる。ただ東は、たんたんとそれをさらけだせるのだ。そこに凡百の書き手との違いがあるのだろう。

東は、自分の試行錯誤の歩みを「誤配」というキーワードで救出しようとする。そこに強い意味づけをすることで、批評家としての筋を通しているのだろう。ただ、外野の読者からすれば、唯一この言葉の多用がちょっとうるさかった。意外なつながりや予想外の展開というものは、人が生きていく上で大切だけれども、ごく当たり前の出来事なのだから。


10年日記の効用

小学校の2年くらいから中学生の頃まで、父親に言われて日記をつけていた。初めのうちは親が点検していたから、小学生の内は毎日つけてある。中学の後半はもう書かなくなっていた。その後、社会人になってからも時々日記をつけようと思い立つが、2月か3月まで続けるのがせいぜい。3年連続日記を思い切って試してみても、結果は同じだった。

そんな僕が、50歳を過ぎてから始めた10年連続日記を毎年書きとおし、今年でとうとう最後の年にこぎつけるとは、思いもしなかった。人生何がおこるかわからない。

この日記は、特定の日付を割り振った一頁が3行ずつの10個の欄に分けられている。一番上が2012年で、一番下が2021年だ。書くのは3行だけだから、あとから手帳を見てまとめてつけることもできる。二年目以降になると、以前の記録を振り返る楽しみもある。

今年は、9年分の日記(自分の50代の日々)を毎日振り返りながら、毎日を記録しよう。

 

 

 

 

「沖」の由来

「ここには古くから、『沖』と呼ばれる古屋があった。この名の由来は定かではないが、この古屋は、母屋と納屋と、土蔵に連なる離れ屋から成っていた。決して分限者の構えではなかったが、庭には、青桐や楓、槙などが機嫌よく樹っていた。その佇まいは結構和ませるものがあった。

勤勉・質素・互譲の生き方を自らの美徳として、生き抜いた者達の生家であった。私もここで生まれ育った。時代は変遷し、人々の暮らしや地域のあり方も徐々に変わっていくものであるが、この生き様をいつまでも残しておきたい。

この思いを込めてこの跡地に建設する集合住宅の名称を『沖』と呼ぶことにした。末永くこの名と共に平和な暮らしを進められることを希う。2006年4月6日 安部健」

 

※何年か前に、河東地区を歩いていて、「シャーメゾン沖」という賃貸アパートの門柱に、この文章の書かれた小さな看板を見つけて、深く印象付けられた。どこにでもある旧集落近くでの小規模な開発。しかしそこが人の暮らした土地である以上、誰かの記憶が刻印されているのだ。先日再訪すると、この看板は撤去されていたので、かつてこの土地に住んだ家族の思いに耳を傾ける手がかりはない。けれど、その思いは「沖」という呼び名の中に残響し、住民たちを見守り続けることだろう。当時撮った看板の画像を偶然見つけたので、書き写しておく。


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