大井川通信

大井川あたりの事ども

『背骨コンディショニング』 日野秀彦 2014

今回のコロナ禍を体験して、自分が身体によって支えられていること、というかそもそも身体そのものであること、にもかかわらず、従来それをブラックボックスにしてしまって、それを故意に無視して暮らしてきたことを痛感した。

このブラックボックスをこじあけてみたい、というのは知的関心によるものだけではない。組織を離れて、主体的に生きていくことを決意したからには、何より主体そのものである身体をメンテナンスし、それを持たせないといけない。

しかし、この分野はまったく未知の領域で素人以下であり、おそらく試行錯誤や迷走は避けられないし、避ける必要もないだろう。そこで、ブックオフの安売りコーナーで、何冊か使えそうで、きれいな状態の本を購入してみた。

これはその一冊で、とりあえず読み終えることができ、この本が推奨する四つの運動をしばらく続けることができたので、報告してみる。

上半身を下半身をつなぐ唯一の骨である「仙骨」がゆがみ、その歪みによって神経が引っ張られることで起こる「伝達異常」に基づく症状を、その歪みを矯正することで治す、というのがこの本の主張である。

僕は、以前から自分の骨盤のゆがみを自覚していて、そのために左右の足の長さが違ったりしているみたいなのだが、とりあえず「仙骨のゆがみ」原理主義というか、その一点突破みたいな理屈はわかりやすい。

理屈がシンプルだから、対策の運動もシンプルではあるが、きわめて特徴的であり、その狙いも明確だ。このため、僕のような運動音痴、三日坊主でも、覚えて続けることが出来ている。そして、なんだか効果があるような気がしている。

というわけで、とりあえず「身体」という記事のカテゴリーも新設した。ぼちぼち実践し、読みかつ考えていくことにしよう。

 

『定年前、しなくていい5つのこと』 大江英樹 2020

以前もこの手の定年関連本を手にとったことがあるが、これは比較にならないほどよい本だった。

大手企業を新卒から定年まで勤めあげて、定年後起業し、文筆家として成功しているという、かなり恵まれた境遇を背景にして書かれている、という前提条件ではあるが、豊富な知識とバランス感覚、なにより著者の人柄の良さが相まって、定年をめぐっての優れた指南本となっていると思う。

とくに実際的な知識に乏しく、経験とバランス感覚を欠いている僕には、いちいちもっともな指摘と、役に立つ情報が多く、バイブル的に利用できそうだ。とくに以下の二点については、目からウロコで、喫緊の決断の参考になった。

お金について、定年後の心配がさほどでもないこと。公的保障がかなりあてになり、民間の生命保険が不要であること。また、定年後のお金の管理が「節約」ではなく「無駄をなくす」ということであること。

定年後は働くことの意識を180度変えるべきであること。サラリーマン脳を脱するためには、「そもそもつまらない」「65歳で強制終了」の再雇用ではたらくことを避けるべきであること。

 

退院一か月(クスリの効用)

退院して一か月。

この一か月は、めまぐるしく考え、振るまい、持ち物を片づけてきた。もともと考えることと書くことはセットであるという自覚があったので、つたない文章をこのブログに書きつけて来たのだが、深く進路を考えることの根底に、自分の持ち物との関係がある(身辺の整理整頓の必要がある)というのは、新たな気づきだった。

これは今までもそうだったけれども、話すことは書くことのきっかけだったり、書いたことを確かめなおす機会だったりする。このコロナ禍の経験と自分の思いも、おしゃべりな僕は、ずいぶんいろいろな人に話をした。

その内容は、このブログに今までまとめてきたことがベースだけれども、様々な相手の反応を見ながら、枝葉を刈り込んでいき、話としての「完成度」はずいぶん高まった気はする。また、相手の言葉によって、あらたな発見もあった。

コロナ感性の当事者の体験談は、多くの人がそれだけで興味をもって聞いてくれる。ただ、その渦中で、僕が自分が死ぬという運命を受け入れることができたこと、今後の生き方について新しい決断ができたこと、という二点は、手前みそ過ぎて、話としてあまり面白くない。やはり、最後には自分を落として「自虐気味」にオチをつけないと、僕も居心地が悪い。

入院時は、コロナ肺炎で血中の酸素濃度がかなり落ちていた。自分の思索と精神の力で死の運命を受け入れられたと錯覚したが、単に酸素が足りなくて頭がボーっとして現実に流されていただけだった、というのが一つ目のオチ。

入院中、自分の人生を振り返って決断し、退院後ただちにそのための活動を開始したのは、死と向き合った体験の深さとそこからの自分の決断の重さのためというふうに自分を美化していた。しかし、知人からステロイドには覚醒作用があると教えられて、それが不眠の原因だと了解できたが、当時はただ眠れないだけではなく、深夜猛烈に部屋の片づけをしていたのだ。つぎつぎと懸案を片付けていく充実ぶりは、今から振り返ると、とても病み上がりとは思えない。

ステロイドの錠剤は今でも飲んでいるが、段階的に量を減らしている。最近ようやくぐっすり眠れるようになり、少しぼんやりしたいつもの自分を取り戻すことで、この一か月の自分がやはり普通ではなかった、とあらためて実感できるようになった。

結局はクスリの力、薬中毒みたいなものだった、というのが二つ目のオチ。

二つとも、自虐ネタとして使っているが、おそらく実際はそんなところだろう。やはり他者と話して、自分を客観視することは大切だ。ただ、コロナに感染したのも、治療によって「覚醒」したのも、自分が望み、求めている方向への転機になったのだから、結果オーライでそれでよかったと思っている。

 

 

 

カイツブリの決意

僕が入院中、ババウラ池では、カイツブリのヒナが3羽無事に育ち、退院後の新生活に気をとられているうちに、3羽とも巣立っていったようだ。

天候と人間の都合で水位が下がったり、水が抜かれてしまうようなため池の不安定な環境だから、ヒナが卵からかえり、飛び立つことのできるまで育つのは決してあたり前のことではない。カイツブリは、おそらく飛ぶのが苦手で、親でもめったに飛ぶ姿を見ることができない。昨年の秋は、小さなヒナが、水を抜かれた池の底の水たまりで命を失っている。

ただ、子育てのためには、周囲を高い崖に囲まれて外敵から守られており、エサも豊富なため池は都合がよいのだろう。今朝見ると、梅雨時の豊富な水量をなみなみとため込んだババウラ池に、新しい親鳥の姿が見ることができた。

前回の子育てのあと水没して巣の残骸のあった場所に、新しい立派な浮巣が作られている。陸地から少し離れて、枯れ枝で囲われたその場所が巣作りには適しているのだ。もう卵も産んでいるのだろうか。親鳥は、浮巣に座って、池の水面をじっと見つめている。

これから、全力の子育てが始まる。もう後にはひけない。天候についても人の気まぐれについても、何の保証も成算があるわけでもないだろう。成否はともかく、自分は自分のやるべきことをする。

そんなカイツブリの静かな決意に、なんだか気圧される思いがした。

 

 

主治医の写真

一般病棟に移って数日後に、ようやく退院の許しがでて、初めて病棟の診察室に出向いて、主治医から検査結果の説明を受けることになった。白衣を着た主治医は、ごく普通の初老のお医者さんに見える。

初めて主治医に出会ったのは、病状が悪化してこの病院に救急車で担ぎこまれた後、感染対策の重装備をして現れた姿だった。自己紹介もないから、たぶん医者だろうと思うだけだ。病状が病状だけに診断の言葉も厳しい。優しい看護師に比べて、この医者の顔を見るのも怖かったが、それでも先の見えない闘病の中で、ずいぶんと頼りになった。

僕は、主治医に頼んで、診察室で二人並んだスナップショットをスマホで撮らせてもらった。撮影は、看護師さんにお願いした。

ちょっとした思い付きだったけれど、おかげでその時の写真が僕の手元にある。二人ともマスクをつけているのが、時間が経てばコロナ禍の真っ最中らしいと思えるようになるだろう。

病院服を着た僕はやせてやつれてはいるものの、翌日の退院が決まっているためか表情は明るいし、おそらくステロイド薬の覚醒作用のために(笑)気力が充実していている印象だ。主治医の吉武先生は、意外な頼みに少し照れてもいるようだが、穏やかな表情をしている。

この写真を手元に置いて今回の体験と感謝の気持ちを忘れないようにしようというのが思い付きの理由だったのだが、退院から一か月ばかりして、ようやく写真をプリントして額に入れ、部屋の棚に置いた。

初心忘るべからず。この先、僕は何度もこの写真を見て、自分の原点と初心を確認することになるだろう。

 

玉虫、飛ぶ

玄関先のケヤキの幹に、見える限りでも50匹以上のクマゼミがとまっている。こうしてみると、同じクマゼミでも色合いとか大きさとか形が微妙に違う。アブラゼミの姿はまったく見えないけれど、午後遅くなって、ジリジリというアブラゼミの声も聞こえるから、どこかに潜んではいるのだろう。

道をはさんだ向かいの家の生け垣あたりを、目立つ虫が飛んでいる。硬い前羽を広げた細長い甲虫で、日光を受けてグリーンの輝いている。

一目で、タマムシとわかった。生け垣の下の道路に落ちてくれれば拾えるのだが、と思ったが、生け垣を越え、隣家の庭を飛び越していく。あわてて、道路に出て追いかける。タマムシは一定の高度を保ったまま、別の家の庭の上空に消えていった。

たまに見つけるタマムシは舗装道路に落ちていることが多い。飛んでいる姿を追いかけたことは今まで無かったと思うが、ふわふわと身が軽く、なかなかの飛びっぷりだった。例年6月の頃に日中飛んでいる姿を見かけるゴマダラカミキリに比べても、飛ぶのは得意なのかもしれない。

そのあと、妻といっしょに隣町の神社にお参りに行く。僕以上に神様を大切にする妻は、コロナからの回復のお礼参りをしたいというのだ。この神社の境内は石段の上にあって手ごろなウォーキングになるから、僕も喜んでついていく。

駐車場で車を降りて、参道に当たる通りを歩いていたら、歩道のかたわらから垂直に舞い上がった虫がいる。これも青空をバックに、見事にグリーンに輝くタマムシだった。もう少しはやく気づいていたら、拾えたかもしれない。こんどもタマムシは、住宅の植木を越えて、軽々と飛び去っていった。

一日に二度、タマムシが飛ぶ姿に出会えて、なんだか得をしたような気がした。

 

コガムシとゲンゴロウ

大井の田んぼで、はじめてゲンゴロウの仲間を見つけたのが2005年だから、それからもう15年が経つ。この辺りでも多少開発が進んで、秀円寺の前の田んぼも住宅街になってしまった。いつのまにか見かける水生昆虫の種類も減ってしまったような気がする。

にもかかわらず、この夏は、和歌神社前の田んぼで、水生昆虫が大量発生している。ヒメガムシがわらわらと水中を泳いでいるだけでなく、舵を失った魚雷みたいなハイイロゲンゴロウもあちこちで波紋を作っている。住宅に面したここは、かつてそんなスポットではなかった気がする。

驚いたのは、コガムシの姿を複数、見つけたことだ。どこにでもいるヒメガムシとは違って、それよりはるかに大きなコガムシは、僕は大井でも何度かしか見つけたことはない。ハイイロゲンゴロウよりも一回り大きく見えるコガムシは、この地域では、水生昆虫の王者といえるかもしれない。

身体が大きいためか、泳ぎにつかう後ろ足がヒメガムシより発達しているように見えて、よりゲンゴロウに近い感じがする。水面で腹の下に空気をため込むときも、水中の身体をポンプのように上下に振る姿を見せることもあって、迫力がある。

田んぼの底に隠れたコガムシが、さっと水面に上がってまた潜る姿は、はじめはゲンゴロウかと思ったくらいだった。因みに、ヒメガムシも田んぼの中を歩くみたいに移動する姿はやや不格好だが、水中での素早い上下運動では、潜った直後には尻に水泡をつけていたりして、ゲンゴロウと見間違える。

中型種最大のハイイロゲンゴロウよりも大きなコガムシをながめながら、自然環境ではもはや見ることのできない大型種のゲンゴロウの姿を想像することにしてみよう。

 

 

ヒメハルゼミとゲンゴロウ

コロナ騒動も落ち着いて、ようやく地元のセミの様子を調べる余裕がでてくる。

秀円寺の裏山から大井に降りようと近づくと、はやくもヒメハルゼミらしき声が聞こえてくる。一昨年、昨年と気づかなかった。秀円寺の並びにある和歌神社まで来ると、鎮守の杜では、さかんにヒメハルゼミ蝉しぐれが降ってくる。

ふと和歌神社の前の田んぼをのぞくと、水面になじみのある波紋が広がっている。ハイイロゲンゴロウだ。大井には毎年発生の多い田んぼはあるが、ここではなかった。水抜きの途中なので、残った水面に集まってきたのかもしれない。

ゲンゴロウとなると、さすがのヒメハルゼミも単なるバックミュージックになる。水中にはヒメガムシが多いが、負けないくらいハイイロゲンゴロウもいる。しげしげと水中を見つめていると、今まで捕まえたことのない種類のゲンゴロウらしき小さな影が。

こうなると大井川歩きの原則もどうでもよくなる。自宅まで小走りで戻り、網とビニール袋をもって、今度は車で和歌神社前に駆けつける。残念ながら、先ほどの虫は姿を消しているので、ハイイロゲンゴロウを数匹つかまえた。

今日の調査では、和歌神社から、納骨堂の裏山までつづく林で、ヒメハルゼミの鳴き声が確認できた。少し離れたところでは、医師会病院駐車場裏の森や、ヒラノの須賀神社の鎮守の杜でも。ただ、それらの場所ではヒグラシの声が主役で、ヒメハルゼミの声ははあまり元気がなかったりする。

和歌神社に戻っても、しばらくはヒグラシたちの声ばかりが目立った。しかしやがてヒメハルゼミの大合唱が始まって、ヒグラシの声をかき消してしまう。やはりこのあたりの林の中でも、和歌神社は別格だ。ヒメハルゼミ交響曲は、薄暗くなる七時半すぎまで続いた。

 

 

ホテルの窓を見上げる

コロナ感染症の治療で入院していた病院の周囲は、退院してすぐに歩いた。感染病棟の病室の窓や、一般病棟に移ってからの病室や廊下の窓を、入院中見下ろしていた風景の中に立って確認した。

一方、入院の前に缶詰めにされていたホテルの方は、退去して一か月以上たってから、ようやく訪れることができた。

ホテルでの一週間は、感染症が悪化し、ひどい倦怠感に襲われる中での単調な生活だったから、今となっては強烈な記憶があるわけではない。窓から見下ろす都会の路地の風景も、初めのうちこそ気分転換になっていたものの、やがてのぞき込む気力さえなくなったいた気がする。

ホテルの立地は想像以上に都会のど真ん中で、西日本を代表する繁華街と目と鼻の先のお洒落なホテルだった。貼り紙があって、昨年から専用の宿泊療養施設として使われていると書いてある。

僕の宿泊した部屋は、大通りとは反対側の隅で、ふだん歩かない裏通りの路地に面していたから、一歩表通りに出たら見える繁華街の風景とのギャップには驚かされた。僕の無為と倦怠の一週間は、この街の営みとは完全に遮断された時間だったのだ。

802号室。感染者が急減して今は空室らしいその部屋の窓を確認してから、僕は雑踏へと引き返した。

 

見たくないものは見ないで捨てる

持ち物の中には、様々な過去の記録がある。その当時は、ぜひ残したいと積極的に判断していたものもあれば、自分にとっては苦痛な出来事の記録でも、いずれ役に立つことがあるかもしれないと保存しているものもある。

若い頃に書いた手紙の原稿などは、今では甘ったるくて、感覚的に読むにたえない。生理的に受け付けない。そんなものは、ためらいなく捨ててしまう。

若いころの浅はかさで、親に迷惑をかけてしまった当時の親からの手紙など、ずっと持ってはいるが、やはり今でもそれを開く勇気がない。それらも無理をして開くことなく、捨ててしまう。

若いころは、自分の過去の丸ごとを引き受けたいと思っていたし、ばくぜんとそうすることが正しいと信じていた。しかし、現実にはそんなことができるわけはなく、自分の記憶も持ち物も、さまざまな淘汰や取捨選択を受けた上で残された、ごく一部のものにすぎない。

今とこれからの自分のとって必要なものだけを残して、あとは捨ててしまう。たとえば明日一日の命しか残されていないのであれば、その一日を心楽しく過ごすための記憶と思い出だけをたずさえていたらいいのだ。

若いころ、鶴見俊輔のこんなエピソードに感心していた。鶴見は、少年時代とても嫌な奴だったらしい。大人になって良心的な思想家としての評価が定まったあとでも、子どもの時のクラス会には、自分が嫌な奴であることを忘れないために参加しているそうだ。

しかし今思うと、鶴見には、そういう振り返りを養分とできるような思想家としての活動の舞台があったのだ。もっと世俗的に言えば、自分がかつて嫌な人間だったことを受けれられる鶴見はすごい(嫌な人間ではない)と評価してくれる僕のような読者がいることを、鶴見自身が知らないわけがない。

ただの無名の平凡人が、自分の嫌な過去とただ一人向き合うためにクラス会に参加するなんてありえないし、そんなことはしなくていいのだと思う。案内状がきてもぽいと捨て、忘れられることならそれを忘れて構わないと思う。