大井川通信

大井川あたりの事ども

『アメリカで真宗を学ぶ』 羽田信生 2022

今年も近所の浄土真宗の聞法道場(勉強会)で、羽田信生先生の特別講座があったので、申し込んで聴講した。コロナ禍で先生は来日できないから、昨年同様オンラインでの講義だったけれど、力のこもった羽田節を堪能できた。

羽田先生を知ったのは10数年前だが、先生との出会いがなかったら、僕は宗教や信仰の問題と向き合うことはなかっただろう。近所の道場が定期的に先生の講演会を企画してくれなかったら、ゆっくりとでも先生の著書を読み続けることもできなかっただろう。何か月か前に手に入れた先生のこの講義録を読み通したのも、今回の講演がきっかけだった。

善知識(モデルとなる先達・師匠)とサンガ(勉強の仲間と場)がどうしても必要だというのは、何も宗教に限った話ではなく、心弱く怠惰な人間の性(サガ)に根差した実践的な真理なのだと思う。

僕が聞いてきた講演では、先生ご自身の経歴やアメリカの宗教事情はエピソード的に触れられるだけだが、この本では、むしろそこが中心テーマになっていて、浄土真宗の現状についても、相当思い切った辛辣な見解が述べられている。先生が取り出す浄土真宗の本質は、とてもシンプルで、宗教という形を最終的に脱ぎ捨てるものだといっていい。

僕の素朴な疑問は、このシンプルな真理を体得するために、善知識とサンガは必須としても、前時代の経典や学説の煩瑣な解釈(たとえ親鸞の著作であっても)を経由することが本当に必要なのかということだ。むしろ現代の人間の生老病死の実相に迫り、現実の自然の有り様を体験することが大切なのではないか。

今回の講演会でも実は後味の悪いことがあった。質疑応答の時間に、先生の宗教理解に聞く耳をもたず、自説に固執した質問者が現れて、神学論争みたいなことで時間が空費されたのだ。それに付き合わざるを得ない先生が気の毒だったが、経典や学説の解釈が中心の場では避けられない不毛のような気がする。

頭に多少自信のある人間は、議論をいくらでも細分化できるし、解釈や理解の積み重ねに快楽を感じることができる。たくさんの学問が栄えているように、そういう知的で特権的な営みに魅力があることもわかるが、それでは「人知の殻」から抜け出すことは難しいだろう。

僕には、羽田先生が英文でアメリカ人むけにていねいに説いたエッセイ集一冊で十分だ。僕の英語力では、とてもそれを自分の言葉のように身につけて振りまわしたりすることはできない。ただ耳をすませて、英文の奥にあるシンプルな真理に思いをいたすことができる。それだけでいいのだと思っている。

 

 

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『田宮虎彦作品集第3巻』を読む

第5巻では、人物の一生をコンパクトに折りたたんで提示する技に冴えを見せていた田宮だが、この巻では、作者に近い人物の学生時代の日々を、引き延ばしてスローモーションで見せるかのように描いている。

私小説風の連作短編は、前作の設定を再度説明しながら始まるので、ちょっと冗長な感じがする。クライマックスの『足摺岬』だけは、畳み重ねるようなリズムで歴史を描いており、密度の違いを見せつける。

卯の花くたし』は、京都の高等学校生である主人公の貧しい暮らしを描き、『鹿ケ谷』では、親切な下宿の奥さんの悲劇が添えられる。『比叡おろし』は同宿する社会人の細井さんにも励まされながら、大学進学の気持ちを奮い立たせる顛末を描いて読み応えがある。やっと東京の大学に進んだ主人公の苦学生活と、同宿の中学生や病んだ少年との交流を描く『絵本』。母の訃報に接して混乱し、また勉強に打ち込む友人の精神の崩壊を目の当たりにする『菊坂』。そしてなんといっても名作『足摺岬』のいぶし銀の輝きは、何度読み返しても色あせることはない。

昭和初めの大学生活で、法学生が民法学の我妻栄の学説を勉強したり、成績の「優」の数が就職に有利に働くなどのエピソードは、その半世紀後の僕の学生時代と変わらないのが面白かった。

じつはここまでの連作は、旺文社文庫の収録作品とまったく同じで、僕もこの並びで読んだことがあった。作品集では、別に三つの短編が付け加わり、主人公を嫌う父親の姿やその心理にスポットが当てられている。戦争中に書かれた『七つの荒海』は、父親の書簡から権威主義的で尊大な性格が伺われて興味深い。

 

 

 

安部文範さんを悼む

安部文範さんの訃報に接する。

2年前の夏に不慮の病に倒れたものの、昨年末には手紙のやり取りもできるまで回復していた。ただ、コロナ禍の入院で見舞いすら許されなかったのが、もどかしかった。

もう少し待ちさえすれば、安部さんの生活がどういうものになっても、以前のように気楽に訪ねて文学の話などができるようになると思っていたが、それもかなわなかった。僕は安部さんを世間並みに見送ることもできなかったが、基本的に淡白だった二人のつきあいにふさわしい別れだったかもしれない。

安部さんとの出会いは、20数年前、ある当事者問題を扱うグループの集会だった。たまたま安部さんがレポートする会だったが、初参加の僕は調子にのって安部さんにあまりかみ合わない議論を吹きかけた記憶がある。当時、安部さんは美術コーディネーターや批評家として福岡の現代美術シーンで重きをなすとともに、その当事者グループの中心メンバーとして活躍していた時期だったから、年少で肩書もない僕をかまう余裕はなかっただろう。

安部さんとの関係ができたのは、二人がグループを離れたあとだった。僕が勉強会を持ちかけて、安部さんの命名による「9月の会」が、毎月二人で語り合う場として続けられるようになった。この会は途中中断をはさみながら、11年続く。この場で僕は安部さんから多くのことを吸収し、しだいに遠慮のないやり取りができるようになっていった。

この間、安部さんは毎年のように自宅の玉乃井で現代美術展を開催し、新聞に映画評の連載を持ち、菜園便りのエッセイを書き続け、映画会を主催し、玉乃井保存の活動に加わった。夏には、恒例の福間海岸の花火を見る会も。社交家の一面をもつ安部さんは、いつもそうしたグループや友達の輪の中にいたが、僕は相変わらず安部さんとは細々と一対一の関係でつながっているばかりだった。

9月の会にも一区切りをつけて、玉乃井カフェで時々話をするだけになったあと、僕は安部さんを車で誘って、宗像でそばを食べ、折尾のブックバーに同行したことがある。明治大文学部の後輩のマスターと話し、お酒を飲んだ安部さんはとても機嫌が良かった。

考えてみればこんな大人同士の当たり前の付き合いをしたことはなく、ぜひまた誘ってほしいと安部さんからも言われ、僕もその気になっていた。ところがこの直後にコロナ禍に見舞われ、数か月後の玉乃井展の会期中に安部さんが倒れてしまう。

倒れる数日前に、僕は家族で玉乃井展を見に行った。ありきたりの美術展でなくこれまでの表現活動の集大成ともいえる展覧会に、安部さんは少し興奮気味に見えた。妻はあとから、安部さんの目が異様に輝いていて宇宙人じゃないかと思った、と真顔でいう。

そう、玉乃井の闇の中で相対しているとき、安部さんのたたずまいに、この世の人ではないような感じをうけることがあった。冥福を祈る、というのは常套句にすぎないけれども、安部さんなら、冥土にもしっかりと居場所が用意されている気がする。リラックスして待っていてください。また、いずれ。

 

 

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関東大震災直後の映像を観る

今日は、関東大震災発生から99年目の日となる。地震直後の東京の被害や救援活動を写した貴重な動画がネットで公開されている。写真でしか見たことのない震災被害が比較的鮮明な映像で30分以上残っていて驚いた。

僕の父親は震災の翌年の3月に生まれているから、震災の時、父を身ごもっていた身重の祖母が東京の街で命からがら避難したという話は、父親から何度も聞かされた記憶がある。ちなみに父親は、渋谷の道玄坂の生まれだ。

妻の祖母は福島出身で、東京に奉公に出て、震災当時東京で福岡出身の祖父と結婚していたという。その後福岡に戻って博多にミシン店をかまえたそうだが、妻はこの祖母にずいぶんと可愛がられたらしい。妻が子どもの時ボーっとしていると、ゆめのきゅうさくのごたる、シャキッとせえと言われたという祖母だ。

被災や救護の現場で映し出される当時の若い女性の姿を見ると、その中に、僕や妻の祖母たちがいるような気がして、思わず目をこらしてしまう。

このフィルムは、西本願寺が救護隊を組織して自分たちの活動を写し、あわせて震災直後の被災のフィルムを買い取って編集し、全国の末寺などの会場で上映会を開いたもののようだ。社会奉仕とともに宗派の布教宣伝を兼ねたものだろう。いまでは災害時の個人ボランティアが話題になるが、当時は宗教団体の役割が大きかったことがわかる。

10万人以上の死者を出して、東京が焼け野原となってしまった姿が、俯瞰の映像で映しだされる。今まで観る機会の多かった敗戦後の東京の姿に重なる。すでに建物の建築が進んでいる様子も見られるが、このあとわずか20年数年後には、せっかく作り直された街並みが、空襲によって同規模の死者を出し再び焼け野原になってしまうとは、だれが予想しただろうか。

この年齢まで生きると、20年という時間がとても短いことを実感する。今から20年前の日韓ワールドカップのことなど、ついこの前のことに思えるからだ。

天災によって徹底して破壊された街を再建し、その知恵と工夫と労力の結晶である街をわずか20年後に人災により喪失する。巨大な積木崩しのようだ。人間というもののどうしようもない愚かさを思う。

 

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次男の子育て(「入社一年目の反省と来年の抱負」)

今年を振り返って、4月の1日目、改めて〇〇に行って、施設内に入った時は「ぼくの仕事人生はここから始まるのか」と思いました。

まず最初に行った仕事は、〇〇朝礼の誘導でした。最初はトレーナーさんと二人で誘導していましたが、段々慣れてきて、今では一人で出来るようになりました。今では、トレーナーさんがいない時とはいえ〇〇朝礼をまかされるようになりました。

〇〇朝礼が終わったら、最初は4階のお手伝いをしていましたが、4階のお手伝いだけでは出来る事は少ないと思い、風呂の誘導をするようにしました。最初はわけがわからずとまどう事もありましたが、今ではまわりの先輩からたよられるようになりました。

次に午後からはリハビリの誘導があります。2年前までは僕の先輩が誘導をやっていたらしいのですが、とある事情で会社をやめたそうです。それ以来僕が入社してくるまでは、トレーナーさんが1階と2、4階に分けて誘導をしていたそうです。僕が誘導をするようになって、全部の階を毎日誘導できるようになってから、誘導する階を分けた事もあって、落ち着いたバイタルが今では上がっているようで、トレーナーさんから感謝されました。

12月にやったクリスマス会ですが、特技のざぶとん回しをして、途中失敗してしまった事もありましたが、皆さんお客様、温かい目で拍手をしてくれました。

今年の反省は、初日、皆さん職員さんやトレーナーさんのためにもがんばろう、仲良くなろうと思っていましたが、逆にがんばりすぎてまわりの職員さんに迷惑をかけてしまったことです。なので来年の抱負としては、まわりの職員さんたちに迷惑をかけないように、後、理解と説明ができるようにがんばりたいです。

 

※次男の会社では、毎年レポートの提出を求められる。これは入社一年め(5年前)の暮れに書いたもので、レポート用紙を前に悩んでいる次男に、一日の仕事や一年の行事を順番に思い出して書いてみたらとアドバイスしたら、本人が独力で最後の行までしっかり書き上げたもの。当時は、言葉やコミュニケーションの力にハンデのある次男に、こんな明晰な作文が書けるのかと、キツネにつままれたような気持ちになったのを覚えている。今ではもう驚かないけれども。

 

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次男の子育て(社内報・作文)

「育ててくれてありがとう」

私は今から22年前に〇〇県〇〇市の〇〇家の次男としてこの世に生を受けました。生まれる際、軽い障碍と、日常生活や仕事などに支障が出る病気を患ったのですが、父や母のおかげで長い時間をかけて寛解する事ができ、軽い障碍は両親にサポートしてもらいながら日々を過ごしました。

父は、私が赤ちゃんの頃から現在に至るまで、私のことを想って育ててくれました。小さい時から兄や母と一緒に遠い所まで連れて行ってくれることもよくありました。社会的な勉強や常識を学んだのも父から教わったからです。

母も、私が子どもの頃から大切に育ててくれ、特にご飯をよく作ってくれて、いつも感謝しながら食べていました。私が高校を卒業した後も朝早くからお弁当を作ってくれ、本当にありがとうという言葉しか出てきません。

小学生の頃は、障碍に加え、喋るのが苦手というだけでよくいじめられました。当時は頭がはっきりしておらず、数々の暴言を言われてもあだ名だと思っていましたが、中学生になってようやく「いじめられていたんだな」と気が付きました。分かった途端にすごいショックを受けたことを今でも覚えています。

中学生になってもまたいじめられるのかと不安に思っていましたが、そんなことはなく、むしろ友好的に接してくれる人もいました。後で知ったことなのですが、母が道徳の授業に参加して、私が中学生になってもいじめられないように、クラスのみんなに伝えてくれていたそうです。そのおかげで私は中学三年間、いじめられることなく、無事に卒業出来ました。もし母がクラスのみんなに私のことを伝えてくれなかったら、中学生になってもいじめられていたと思うので、本当に感謝しかありませんし、守ってくれてありがとうと心から思っています。

4年前の2017年4月に〇〇に入社し、初めての土地、仕事、周りに知る人もいない中で不安ばかりがありました。しかし今では先輩方や周りの方々に補助をしてもらいながら頑張ることができています。これからもいろいろと迷惑をかけると思いますが、温かく見守っていてください。

父さんと母さんの息子として産んでくれて、本当にありがとう。

 

※次男の勤務先の企業グループの社内報(今年の3月号)に掲載されたもの。本人は恥ずかしかったらしく親に見せなかったけれども、今回の転勤で新しい施設長さんに教えられた。次男によると書く内容のアドバイスは受けたそうで、漢字の修正などもしてもらっているはずだが、文章自体は彼のものだろう。エピソードを過不足なく説明してひとまとまりの段落をつくり、それを順序よく並べていくという文章作法はどこで身につけたのか、我が子ながら驚異的だ。

 

『田宮虎彦作品集 第5巻』を読む

ネットオークションで、状態のいい作品集全6巻を安価で手にいれたものの、今までの僕ならそのまま書庫にお蔵入りになってしまうところだ。いつか読むというのが言い訳だったけれど、人生のタイムリミットが見えてきた感のある今では、それは通用しない。

幸い、作品集一巻のボリュームは、せいぜい文庫本一冊程度しかなく手ごろだ。たまたま手に取った巻から読み切ることにした。

第5巻は、明治大正昭和と続く日本の近代を生ききった人物の生涯を描く作品を集めたもの。やはり肌の合う作家なのだろう。通勤の電車で読んでいたら、一駅乗り過ごしてしまった。

短編で一人の人間の半生を描き切るのだから、展開がはやい。人生の要所の象徴的なエピソードをつなげる手法をとるのだが、そのエピソードの選択と描写が的確だから、拙速だったり不自然な感じがせずに、本当に生きている人間を描いているように思える。

時代と人間関係に翻弄された相当に不幸な話だから、僕のような気が小さくて感傷的な人間には読むのがつらくなるところだが、この展開の速さが救いになる。

『梅花抄』(1951)は、江戸時代以来の格式ある旅館「なぎさ屋」とその梅林の盛衰を、切り盛りする辰枝の生涯とともに描いている。出生に秘密のある辰枝は遊び癖のある夫に苦しめられるが、娘たちも女癖の悪い下宿人の教師に蹂躙される。女たちはあくまで受け身で、非情の男が物語の中で罰せられないことには、やや不満が残る。

土佐日記』(1949)は、土佐の名家「巣山屋敷」の盛衰を描く。女当主登米子は妾の子であるという秘密があり、小作出身の負い目のある養子の夫の横暴と女遊びに苦しめられて、夫が愛情を与えることのなかった二人の息子にも先立たれる。名家の財産を使いつくした夫の死後、息子の愛人を引き取り、貧しい人に心を寄せたり、屋敷の門前での遍路への接待を復活したりする老いた登米子の姿には、救いがある。

『江上の一族』(1947)は、儒家で医者を務める江上家の歴史を、嫁の澄江の視点で描いている。主人公は次男の博介で、勉強はできなくとも人が良く、女たちから可愛がられることで放蕩や家出を繰り返してしまう。家に戻ることなく博介は戦死するが、最後まで実家を誇りに思っており、母親はもちろん父親の視線も冷たくはない。この巻の中で、魅力ある男子のキャラクターは貴重だ。

『山川草木』(1941)は、山奥の秘湯が舞台。湯の番人のかたわら、木こりや炭焼きをする三造の生涯を描く。自分の嫁を置いたまま山を下りた長男は、温泉が繁盛しだすと戻ってきて経営拡大に乗り出す。この話では、父子関係の不幸は、父親の問題ではなく、愛情が薄く自分勝手な息子の問題として描かれている。

『三界』(1948)は、戦後大陸から引き揚げてきた親族の物語を、陸軍少尉の未亡人であるつうの視点から描く。狭い屋敷の中で、引揚者の兄弟たちはすさんでいき、家族同士のいさかいがやむことはない。一人娘も派手な暮らしと外泊が続いており、つうは愚痴るしかない。

『異母兄弟』(1949)は、容貌魁偉で傲慢な軍人の後妻に入った利江が、夫だけでなく先妻の子二人からも、自分が生んだ兄弟の二人とともに徹底して差別され虐げられるむごい話。戦争で先妻の子二人は戦死し、夫も呆けてしまった後に、利江のもとに戦地の収容所での兄の生存の知らせが届き、出奔していた愛すべき弟が戻ってくるというラストにかろうじて救いがある。

主人公は、総じてかなり経済的社会的に恵まれた身分の女性であるが、家庭内のポジションと時代の流れの中で、しいたげられ打ちひしがれる。女性目線が多いためか、男たち、とくに父親という存在は、酷薄で自分本位の人間として描かれるようだ。

土佐日記』と『江上の一族』が特に良いと思えたのは、暗い中にもかすかに希望が感じられるからか。

 

舞台版『気づかいルーシー』を観る

先々週と同じく、北九州芸術劇場の中劇場で観劇する。前回の失望が大きく、チケットを買っているものの、今回はさぼろうと思ったほどだった。といっても家でのごろ寝ほど精神にも身体にもよくないことはない。気をとりなおして出かけることにした。

コロナ明けに意識的に舞台を観るようして改めて気づいたことだが、舞台には(詩と同じように)好き嫌い、向き不向き、体質に合う合わないがあるということだ。無理なく楽しめて常に発見があるような劇団はごくわずかで、退屈なくらいならいいが、目の前の人間のふるまいに嫌悪感を催してしまったら、観続けることが苦行にすらなる。

これからは、他に目的がある場合以外、楽しめないと予想がつく芝居は選ばないようにしよう。

ということで、『気づかいルーシー』(脚本・演出ノゾエ征爾/原作松尾スズキ)は気楽にながめる気分で観ることにした。そこそこ楽しめたが、特別観てよかったと思うほどではなかった。元気な女の子が主人公で、ウマや王子が出てくるという絵本が原作だから、大人がみるとストーリーはどうしてもありきたりで退屈になる。途中、数十分寝てしまった。

皮をはいでそれを被って人に化けるというシーンが多く、なんとなく大人向きのブラックユーモアやギャグが主流(原作者は絵本作家でなく著名な小説家)で、観客席にいるちびっこたちが本当に楽しめたかどうかは、やや疑問が残る。

中劇場だから、小劇場のような臨場感はない。役者さんたちの歌や踊り、様々な小道具や舞台装置の転換など頑張っているのはわかるが、遠目にみている観客を引き込むのは難しい。子ども向きということなら、6月に小劇場で間近に観た『にんぎょひめ』(to R mansion )のほうが迫力が伝わり、客席も沸いていたと思う。

テレビで一時期よく見たタレントが役者として参加していたが、大きな会場の演劇にはそうした付加価値がどうしても必要なのかもしれない。

 

 

 

 

思わず舞踏に触れる

知り合いから絵の展示と詩の朗読などの集まりに誘われた。読書会仲間が詩を読むから参加したのだが、音楽の演奏と舞踏のパフォーマンスもあって、マイブームの舞踏に予想外の場面で触れることができた。

アパートを改造したアトリエで、10人ばかりが坐ると、舞台となるスペースはわずかしかない。正面に大きな絵が貼られており、その前に小さな椅子が一脚。

左袖の引き戸を開けて、ダンサーがゆっくりと、という以上にかすかな動きでじわじわと舞台に現れる。身体をねじりながら、正面の絵画作品の前まで来て、椅子にまたがり、また帰っていくまでが30分弱。

この遅い動きが一貫して、この舞踏での身体文法となっているようだ。音響は三パターン。登場時は、妙に明るく浮かれたリズム。やがて様々なノイズにかわり、戻るときには別の落ち着いたい音楽がながれていたと思う。照明による白い壁面への影に対しても、あきらかにその効果をねらった身体の動きをしていた。突き出された一本の腕、手のひら、指の表現力が際立つ。

衣裳は、ボロを何重にもまとったようなあいまいな姿で、石をいくつもつなげた大振りの飾り物を下げている。低速で一定の動きの中で、偶然飾り物がガラリと音を立てるのが、アクセントになる。あいまいな衣装の無造作な表情も同じ効果だ。

だぶっとして分量のある衣裳には別の役割もあった。それをかかえ上げ、顔を埋め、抱きしめることで、他者の存在を暗示させるのだ。

舞台にあわわれたダンサーが絵画作品から何事をさずかり、それをかかえてもどっていくというストーリーを読み取ることができた。その体験の重みが、狭い舞台でのきわめて緩慢な動きとそれを支える過剰なエネルギー(ダンサーの手足は不随意に震える)によって伝わってくるのだ。

小さく明るいアトリエだから、演者と観客の両方を見渡せたのも面白かった。たしかに演者はわずか数メートルの移動に数十分をかけるという過酷な作業を行っているが、観客たちこそ、その間不動で一点を見つめるという苦役を強制されていて、演者との我慢比べの様相を呈している。わずかに手足を動かし、遠慮がちに身体を伸ばしたりしながら。

 

 

長男と飲む

再就職した長男の職場は博多駅の近くにあって、僕もこの4月からはこの近辺で働くようになった。お盆休みに話したときに、こんど、仕事帰りのサラリーマンみたいにいっしょに飲もうかというと、そうしようという。それで、実際にメールで誘ってみると、意外なことに、すぐに了解の返事があった。

僕はお酒をほとんど飲まないので、長男が大学に入学したあとも、家でいっしょに晩酌をするなんてことはなかった。長男が大学で専攻した社会学の議論を、家で何時間もしたことはあるけれども、それは大学の受験勉強を一緒にやったことの延長戦みたいなものだった。考えてみれば、親子の関係をバージョンアップするための大切な通過儀礼の機会を逃していたのかもしれない。

下戸に近い僕でも、仕事帰りの飲み会の機会はさんざん経験してきた。そういう社会人同士の関係に息子が入ってくるのは、本当に奇妙な感覚だ。

せっかくなので少し高級な居酒屋に入り、飲み物とコースを注文して、まずグラスをあわせる。話題は次男の仕事のことから、お互いの仕事のこと、家族の将来のこと。お酒が入ってからの本音トークで、いつもより突っ込んだ話ができたと思う。

飲み会の後たくさんの同僚や知人とそうしてきたように、博多駅のコンコースで軽く頭を下げて息子と別れる。