大井川通信

大井川あたりの事ども

2023-01-01から1年間の記事一覧

大晦日に一人で宇部の街をさまよう

ふとした気まぐれで、大晦日に一人で他県のビジネスホテルに泊まることになった。何日か前、新しい年の手帳の使い方を考えているときに、今年はしっかり読了本や絵本、映画・ビデオ(いつもはまったく見ないが)のリストを作って、それを励みにどれも100…

『日本の建築家解剖図鑑』 二村悟 2020

エクスナレッジは、素人の建築好きが手に取れるようなガイドブックを安価で提供してくれるありがたい出版社だ。同社出版の本書は、辰野金吾から黒川紀章までの63人建築家を見開き二ページで紹介している。 まずその建築家のキャッチコピーと似顔絵と業績の紹…

遠山を眺望する

東京に帰省すると、この土地にとって富士山(3776m)がいかに大切な山であるかわかる。子ども時代にそれに気づかなかったのは、高度成長期以降の公害の影響もあるのではないか、と近頃思い至った。規制前の工場の煤煙や車の排気ガスが空を汚し、眺望を妨げ…

『武蔵野風土記』 朝日新聞社編 1969

国立駅前ロータリーから南東方向に伸びる旭通の端に近いところにあるユマニテ書店で、とうとう目当ての本を見つけることができた。書名がわからずに探しあぐねていた本だ。実は相当前にこの書店で古びたこの本を見つけたことがあったのだが、おそらくその時…

丸山薫の秀作を「発見」する

下北沢の古本屋で、新潮文庫の『現代名詩選』(伊東信吉編 1969)3冊本を買う。若い頃新刊本屋の書棚でよく見かけていたが、早い時期に絶版になったものだろう。 1970年前後におそらく詩の本の出版ブームがあったと見えて、詩のアンソロジーや全集、双書の…

行橋詣で(12月)

ようやく風邪も抜けかかる中、小倉で時間調整して、午後一番に行橋へ。周辺のお寺や神社などに寄り道してから教会に着く。クリスマスに合わせたわけではないが、赤ワインならぬ赤霧島を持参する。 井手先生は、午後二時から出かけるとのことで、一時間みっち…

演劇人の従兄と話をする

ちょうど小劇場の歴史に関連する本を三冊読んだところで、演劇人の従兄と話をすることができた。にわか勉強のおかげで、相手の話を引き出すくらいのことはできたと思う。 視野が狭く引っ込み思案の僕が、かろうじて芝居を観たり、演劇ワークショップに参加し…

『目的への抵抗』 國分功一郎 2023

読書会の課題図書で新潮新書の一冊を手に取る。当代の人気哲学者だから、同じ読書会で扱うのも4冊目になるが、どうも僕は著者とそりがあわない。肝心なところで議論に大きな欠落というか死角があるのが気になってしようがないのだ。 本書は、高校生や大学生…

宮国忠広さんと深瀧庸平さん

大学時代にあまりはじけることがなかった僕にとって、20代後半、東京郊外の学習塾の講師で過ごした三年間が、気楽で自由な学生生活を取り戻したみたいな貴重な時間だった。ある程度のお金と自由があったし、同世代の気安い仲間がいた。奥手ながらロックを聴…

金光教東京学生寮に頭を下げる

東京を出立の日の朝、国分寺駅前の姉のマンションを出て、朝の散歩をする。この旅行期間中風邪が抜けなくて、思うように予定はこなせなかったが、今朝はなんとかいい気分で朝歩きを楽しめそうだ。 駅からは、早稲田実業の生徒たちと一緒になる。昔は大学の近…

漱石先生ごめんなさい

東京都現代美術館の帰り、地下鉄東西線の木場駅で乗車したので、早稲田駅で途中下車してみた。漱石ゆかりの場所を見ておきたいと思ったからだ。 漱石山房の跡地は、今は漱石記念館になっている。文学館ではないから収蔵資料はあまりないのだろうが、晩年の漱…

二つの現代美術展

年明けから現代美術を専門とする外田さん、岩本さんとの読書会が始まるから、少しは肩慣らしになるかもと二つの現代美術家の展覧会に寄ってみる。 予想通り、というかそれ以上にひっかかるものが何もなかった。しかしこれには事情がある。風邪気味が続いて体…

『肉食獣』(柿喰う客)を観る

下北沢のザ・スズナリで劇団「柿喰う客」の芝居を観た。僕にとって柿喰う客は、純粋に芝居を楽しめる数少ない劇団の一つだ。実際に公演を観たのは、5本くらいだと思うが、どれもはずれがなかった。これも代表中屋敷法仁の芝居作りのセンスと力量によるものだ…

永福町商店街を歩く

父親には姉が二人いて、長女は赤坂、次女は永福町に住んでいた。それぞれ赤坂のおばさん、永福町のおばさんと呼んでいて、親しくしていた。どちらも商店街で小さな店を構え、赤坂は金物屋、永福町は古物商を営んでいた。 永福町のおばさんは、家もちかく、父…

「自他未分」と「現状優先」

今まで、他人の落とし物を拾ってあげることや、知人から借りた本やお金を返さないこと等、日常生活のなかでの僕たちの謎のふるまいについて、断続的に考察を続けてきた。 西欧由来の法体系(自他はそれぞれ別の独立した主体であり、それぞれモノを絶対的に支…

手袋をおとす

また別の日。 地元の駅前で、斜め前を歩いている女子高生が、そのさらに斜め前に落ちている手袋をさっと拾った。僕は、それを人が落としたところを見ていなかったし、歩道に落ちている黒っぽいものが手袋だとはすぐには気づかなかったから、今時落とし物を拾…

メガネをおとす

僕はいろいろな失敗をするが、まさか歩いていてメガネを落とすとは思わなかった。通勤電車で本を読むためにワイシャツの胸ポケットに100均で買った老眼鏡を入れている。その入れ方が甘かったのだろう。通勤路の公園遊歩道を歩いているとき、カチッという音が…

『飯島耕一詩集』 現代の詩人10 1983

詩というものは不思議で、なかなか一筋縄ではいかない。きっといいだろうと思って読んでもさほど面白くないケースが多いが、あまり根拠なく引き寄せられた結果、意外に胸をうたれることもたまにはある。 今回がそうだった。飯島耕一(1930-2013)は戦後詩の…

『日本の現代演劇』 扇田昭彦 1995

60年代以降の演劇の歴史を振り返るのは、菅孝行の自伝、佐藤信論についで、これで三巡目になる。以前目を通したことのある本だが、背景知識をある程度仕入れたうえで読むと、岩波新書の小著ではあるが、とてもよい本だった。 まず、1940年生まれの著者が、…

こんな夢を見た(結婚編)

子どもができて、結婚することになった。相手の実家にあいさつに行くと、相手の父親が少しルーズな人のようだった。僕に10万借りたらしい。(ここは自分事なのに、なぜか経験したことではなく伝聞したことになっている) そのお金で父親は好きなガンプラを買…

『十二人の死にたい子どもたち』 冲方丁 2016

以下は読書会運営用メモ。盛大にネタバレ含む。 主宰を含めて12人の少年少女が、ネット上の審査を経て、集団での安楽死を実行するために廃病院に集まる。当日は、抜けるのは自由だが実行者全員一致での進行が条件。予期せぬ出来事によって議論が紛糾し、結果…

久しぶりに映画を観る

映画を観たといっても映画館ではなく、美術館の一室での上映だった。 北九州の青山真治映画祭のプログラムで『路地へ 中上健次の残したフイルム』(青山真治監督 2000年 64分)を観る。パンフの紹介文には、「『音楽を作るように映画を作る』と言った青山真…

凋落する日本

今さらながら、タイトルの件について。 僕が小学校時代の子供向けの自動車の本に、日本の自動車生産台数が世界7位であると書かれていたのを覚えている。その後高度成長期からオイルショック以降の安定成長を経て、日本の自動車生産台数が世界一位となり、経…

『さる・るるる』の起爆力

五味太郎の絵本『さる・るるる』(1979)を初めて買ったのは、長男の子育ての時だったような気がする。子どもが飽きたあとも面白いから手元に置いていたのだが、いつの間にか無くなっていた。それで、後になって本屋で見つけたときに自分のために購入してお…

『佐藤信と「運動」の演劇』 梅山いつき 2020

菅孝行の自伝を読んだら、数年前購入してあったこの本が読みたくなった。菅孝行と佐藤信は、僕より二回り上のいわば先生世代に当たる。演劇関係者で左翼であるという共通点もある。ちなみに当時左翼であることは学生、知識人のデフォルトだった。 三回り上以…

「食い尽くし系」を自覚する

ネットを見ていたら、「食い尽くし系」という言葉に出会った。初めて聞く言葉だが、字面からどういう意味合いで使っているのかはだいたい想像できた。調べてみると、ネットスラングの一つとして、近頃注目を浴びているもののようだ。 家族や友人同士の食事で…

『伊東静雄詩集』 林富士馬編 1973

旺文社文庫詩集シリーズの一冊を久しぶりに読み返す。実際手に取ったのは、1997年に出版された小沢書店の小沢クラシックスだが、これは旺文社文庫版の紙面をそのまま印刷したものだ。直接の弟子による思いのこもったやや型破りな解説も貴重だ。 伊東静雄(19…

押し活とユートピア

現代美術家の外田さんと、新しく始める読書会の件で、小倉駅のコメダ珈琲で話をする。話題は多岐にわたったけれど、外田さんの娘さんの話が面白かった。 娘さんもまた美術家だけれども、ある時からアイドルの「押し活」に注力し始めたらしい。今は『遠野物語…

齋藤秀三郎先生のアトリエで議論する

西鉄大橋駅から教えられた49番のバスに乗って、的場2丁目のバス停で降りる。よい雰囲気の鎮守の杜が見えたので神社に参拝して心を落ち着けてから、住宅街の中のアトリエを訪ねる。 ここで、ある誤解が判明する。僕は齋藤先生から電話があって「あなたと話し…

通勤電車で金の光がひらめく(収束編)

金光教では、教祖金光大神のふるまいは、天地の神(天地金乃神)と人間(氏子)との間を取り次いで、氏子を助けることにある。この取次は、氏子の困難(難儀)に応じて、個別具体的に行われる。 信者たちは、教祖金光大神をモデルとして、氏子を天地金乃神へ…