大井川通信

大井川あたりの事ども

ごん狐 新美南吉 1932

初めに読んだのは教科書だと思うが、久しぶりに手に取った。今でも小学校の教科書の定番である。国語の授業では、主人公の心理を読み取ったり、物語の形式を意識したりすることが中心のようだが、ここでは、「大井川歩き」あるいは「なぞり術」的な読みを試みてみたい。

いたずら好きのごんは、兵十が病床の母親のために取ったウナギをそれと知らずに奪ってしまう。母親が亡くなり自分と同じ一人ぼっちとなった兵十のために、ごんはどんぐりを届けるが、誤解から兵十に撃たれる。

この物語のように、動物と人間とが対等の主体としてやりとりできる条件とは何だろうか。まずは、動物が、人間がたやすく立ち入れない生活圏(「しだの一ぱいしげった森の中」)をもっていることだ。次に、人間の生業が農業や狩猟が中心で、その欲望の対象が動物と競合する必要がある。ごんは、人間から「うなぎ」や「いわし」を奪い、「どんぐり」を贈与する。狩猟では、動物の身体そのものが目的となるが、クマやオオカミなら、逆に人間の身体がエサとなるだろう。さらには、人間の生活の中に、神仏への信仰が根付いていることも大切だ。兵十の村には「六地蔵さん」がおり「おねんぶつ」が行われている。人を超えた何者かを崇める暮らしは、おのずから自然や動物をもう一つの主体として遇することに通じるだろう。

先日、僕の住む住宅街の端の小道を散歩していたら、毛並みのいい大きなタヌキと出くわして、うれしくなった。どぶに逃げ込んだので、しばらく真上から息を殺してタヌキの鼻先をながめていたが、とうとう出てこなかった。開発が進んだとはいえ、近くには収穫を控えた田畑が広がっているし、山伏様の石仏やムラの神社もある。兵十のように、大井川にワナを仕掛けて魚を取ったというお年寄りの話を聞いたことがある。里山の森に入ると、筋骨隆々のイノシシに驚かされることもあるが、彼らも鳴り響く猟銃の音におびえているはずだ。

こうして昔からの生活をなぞり歩きしていると、『ごん狐』を自分と地続きの世界の物語として読むことができた。もちろん、同じ住宅街に住んでいても、かつての僕のように都会の仕事場と往復するだけの生活なら、印象はまったく違っただろう。