大井川通信

大井川あたりの事ども

老いの過程

僕は、祖父母の記憶がほとんどない。母の田舎の座敷でふとんに寝ている母方の祖父の姿を、ぼんやり思い出すだけだ。あとの三人は、僕が生まれる前に亡くなっている。そのせいかわからないが、お年寄りのことを分かっていない、と自覚することがある。

80代になっても元気に体操やダンスをし、数キロの道のりも苦にしなかった母親が、ここ数年、腰が曲がり、リュウマチを患ったために、日常生活に支障が出てきた。歩くのが大好きな母は、「坂道を元気に歩きたい」となげく。今は足の腫れが引いて、バスを使って駅前までなんとか買い物に行けるが、そういう身体の状態に家族で一喜一憂している。

以前は、街で杖を突いたり補助具を使ったりして、やっとで歩いているお年寄りを見ても、風景の一部みたいで何も感じなかった。彼ら彼女らはもともとそういう人で、これからも同じ状態を不満なく続けていく。そんな風に漠然と思っていた。

しかし、彼らもほんの少し前までは普通に歩けていて、元気な自分を思い描きながら、必死に足を運んでいるのかもしれない。あるいは、衰えのために、街を出歩くのも人生で最後だろうと打ちひしがれているのかもしれない。老いの過程のただ中で、かろうじて踏ん張っている姿だったのだ。