大井川通信

大井川あたりの事ども

なぜ同じ話を何度もするのか?(記憶論その1)

ほんの10年くらい前まで、年配の人が平気で同じ話を何度もするのが不思議だった。この話、前に聞いたばかりなのに・・・。非難の気持ちというより、目の前にあるコップがなぜ見えないのだろう、と思うのと同じくらい素朴な疑問だった。いつのまにか、自分も平気で他人に同じ話をするようになると、今度は、むしろ、なぜ誰に何を話したか、なんてピンポイントの記憶が維持できるのか、むしろそちらのほうが不思議に思える。

日常接する一人一人に対して、きちんと区分けされた記憶の箱というものがあって、さらにその箱の中には小さな仕切りがあって、時系列の順番でその人と何を話したか、という記憶をきれいに収めているのだろう。その人の箱を取り出しさえすれば、何を話して何を話してないかは一目瞭然だ。

今の自分を比ゆ的に言うと、その記憶の箱の整理された部屋にボヤ騒ぎがあって、炎があたりをなめたうえに、消火剤や水がかぶせられ、消防士の靴であちこち踏みつけられてしまった状態といえるだろう。まず箱が見つからない。見つかっても、中身がこぼれたり、ほかの箱と混じったりもしている。

えーい面倒くさい。とにかく話したいことを話しちゃえ、ということになるわけだ。しかしまだ多少の羞恥心はあるから、必ず「これは話したことがあるかもしれないけれど」と前置きした上で、相手の表情をうかがいながら、話し続けるか早々に話を切り替えるか判断している。老朽化しても、この身体と精神という家屋から転居するわけにはいかない。家屋の崩壊具合にあわせて、住まい方を変えていくしかない。