大井川通信

大井川あたりの事ども

『中動態の世界』(國分功一郎 2017)を読む(その1)

昔からかかわっている読書会の課題図書として読む。よく売れていて、書評等でも評価は高いようだ。しかし、苦労して読んでみると、納得できなかったり、疑問を感じたりするところが多い本だった。たくさん考えさせられた、という意味では刺激的で得難い読書体験を与えてもらった気もする。

本書は哲学書であるが、哲学的思考を、外に向けて開こうという志向のもとに書かれている。プロローグには、依存症の患者との対話を載せているし、そもそも精神医学関連の雑誌に連載された論文がもとになっており、語り口はとても平明だ。しかし哲学の中に閉じこもるのではなく、哲学の外で「役に立つ」ことも意識されている以上、哲学的思考を外部と隔てる「境界線」について、よほど慎重に考慮する必要がでてくるだろう。この点について、著者がほとんど無自覚であるように思えるのが、まずこの本への最初の、しかし大きな違和感である。以下、本書の論述にそって説明してみたい。

現代の言語には、能動態と受動態の区別がある。しかし、かつて言語には、中動態という態があって、むしろ能動/中動という対立が先行していた。哲学の世界では、この点はすでに注目されていて、現在の思考の枠組みは、中動態の抑圧によって成立したという議論さえある。しかし彼らは、中動態を具体的に扱わずいたずらに神秘化してしまったため、この枠組みから抜け出せない。著者は、ここから一歩進めて、中動態が抑圧されるにいたる歴史を参照し、それを「意志」や「責任」といった周辺の言葉とともに概念化することで、従来の思考の枠組みでは語ることが難しい事態に光をあてようとする。

これが著者の思惑であり、このかぎりでは本書の議論はしごくまっとうなもので、医療現場等哲学の外へ裨益しうるのももっともな感じがする。しかし、本当にそうか。上記の議論には、能動/受動が決定的な対立であるという、この思考ゲームの成立に不可欠な前提がある。だからこそ、その対立を抜け出していく思考の身振りが貴重であり、特権的なものでありうるのだろう。著者もこの点については疑うようすはない。

「能動と受動の区別は、われわれの思考の奥深くで作用する内的形式」であり、能動と受動以外を思いつくのも難しい。これは「日本語の話者であっても事情はかわらない」と、著者は平然と宣言する。正直にいうと、僕はこの部分を読んで、この先を読み続ける気力を失うところだった。本当にそうか。仮にそうだとしても、断言ですますのではなく、それを丹念に説明するのが誠実な思考者というものだろう。

少なくとも、日本語話者にとって、能動と受動以外を思いつかないのは、単に中学校の英文法で態としてその二つしか習っていないからという理由のような気がする。日本語の文法や実際の使用において、この二つの態に振り分けられる、という感覚はまずないだろうと僕は思う。しかしこれは言葉の問題にとどまらない。ふだんの生活実感から言って、自他のふるまいを、著者が言うような単純な能動と受動以外では考えられないという人間がもし存在したのなら、一日だってふつうの社会生活は送れないのではないか。

これは次回の議論を先取りすることになるが、僕は、著者の定義する「中動態」とは、近代以降爆発的に拡大し、現代ではいっそう普遍化している事態だと考える。「中動態」のただ中で、つまり組織や社会で「非自発的同意」を日常として生きる現代人が、能動/受動の二者択一人間であるはずはないのだ。著者はそれに半ば気づきながら、理論的に蓋をしてしまっているように思える。