大井川通信

大井川あたりの事ども

『中動態の世界』(國分功一郎 2017)を読む(その2)

それでは著者は、中動態をどのように定義するのか。「主語が動詞によって示される過程の外/内のどちらにあるか」が、能動態と中動態との区別の基準だという。中動態は、主語(行為者)がある過程の内部にいることを示す、と。これは、あっけないほど簡単な定義である。たしかに文法上の中動態という態の提示は、目新しい。しかし、その中身が拍子抜けするようなものであることが、この書を読み解くキーポイントだと思う。

え、行為者がプロセスの中に組み込まれている、ということ? 個人が何でも自分の思い通りに指令を出せる立場(これは「能動」)じゃなくて、あらかじめ存在する過程や関係の中に入り込んで、その制約の中でふるまうって、当たり前のことじゃないかな。人間がプロセスやネットワークの外ではやっていけない、ってことならむしろ現代の方が当てはまることだよね。

著者もフーコーの権力論に触れて、日常の権力現象(非自発的同意)を説明するには、中動態こそふさわしいと述べている。だとしたら、中動態に関してまっさきに問うべきなのは、文法上は主役の座をゆずり抑圧されてきた中動態が、現代社会において、むしろありふれて支配的な事態となっているのはなぜなのか、という問いのはずである。この本の素直な読み手ならそれを疑問に感じるだろうし、著者自身が現代的問題とのリンクを意識しているのだから、なおさらである。しかし、この問いにはまったく触れられないのは、なぜなのか。ここでも「哲学」という思考の枠組みが枷となっている。

中動態の神秘化を避けるために、その歴史を探るというスタンスは正しいと思う。しかし、この本では、それが言語学研究史を参照したり、言語の変遷を問題にしたりすることにとどまっている。出来事を描写する言語から、行為者を確定する言語への移行という仮説は確かに面白いし、その中で中動態が居場所をなくしたというのも説得力がある。ただし、知りたいのはその先なのだ。そのためには、言葉の歴史ではなく、中動態(主体を巻き込むプロセス)という事態そのもの歴史を問わなければいけないだろう。社会経済的な世界における中動態の歴史を回避してはならないのだ。

しかし、著者はそこへ向かわずに、デリダハイデッガースピノザ等の哲学者や文学作品を、中動態という視角から細かく読む作業に没頭し、それがこの本のメインの議論となっている。その内容の当否は僕には判断できないし、哲学的には意味のある仕事なのかもしれない。ただこれでは、一般の読者に対して、そういう特権的な思考を経由しなければ「中動態」にアクセスできない、という印象を与えてしまうのではないか。結果的に、中動態のあらたな神秘化、権威化につながるように思える。