大井川通信

大井川あたりの事ども

『西田幾多郎』 永井均 2006 (中動態その5)

少し前に『中動態の世界』を読んだときに、能動と受動の対立を当然の前提として議論を始めていたのがひどく乱暴な気がした。哲学はこの辺をもっと繊細にあつかっていたはずと思って、とりあえず心当たりを再読したのがこの本だ。

この本では、日本語的把握と英語的把握の対立を議論の入り口にしている。川端康成の『雪国』の有名な冒頭「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」を取り上げて、日本語においては、知覚する主体も、究極的には存在しないという。一方、英語的表現は、経験の主体は常に世界の内部に存在する個人であるという事実を言語表現の基礎に織り込んでいる、と説明する。それが日本語話者には、「無用な自己主張」に聞こえるのだ、と。言い換えれば、能動と受動の対立をも「無用な自己主張」と感じてしまう、ということだろう。『中動態の世界』は、日本語のリアリティ(に基づく思考)を切り捨てた議論に見えてくる。

永井均は、ここから西田哲学にまっすぐに切り込んでいく。永井の問いの側から見ると、西田の議論はたしかに了解しやすい。「場所」も「無」も、永井哲学の〈私〉として読めばいいのだ。ところで、そういう本筋の議論とは別に、永井の本音めいた発言が面白いので、いくつか引用してみる。

>哲学の難解な表現の多くはそうなのだが、通常の言語では表現できないほど自明ことを表現している(P24)

>これらは‥‥概念的探究の鋤(すき)が打ち込めないほど、あまりにも単純で卑近な事実を指し示そうとしている(P80)

>現在の日本の哲学には、追いかけと咀嚼と紹介以外には何もない。ほんの十年前、二十年前に盛んに論じられた問題さえ、時熟を待たずに流行おくれになって忘れられ、次々と新しい動向が紹介されていくだけである(P76)

僕は20年前に『〈子ども〉のための哲学』で衝撃を受けてから、その前後の論文集は読んでみたが、それ以降の著作については、難解さが増した印象で読みこなせなかった。やっかいだが、楽しみな宿題を残している感じだ。