大井川通信

大井川あたりの事ども

『やまとことばの人類学』 荒木博之 1983(中動態その6)

この本も『中動態の世界』への不満から、積読の蔵書から手にとったもの。その点でいえば、日本語が、ヨーロッパの言語と同様に能動対受動を根本的な対立としているかのような妄言を、完膚なきまでにたたきつぶしている。しかも、きわめて具体的に、そして平易に。

たとえば、日本語の助動詞「れる、られる」は、学校文法で「自発」「受身」「可能」「尊敬」の四つの意味を持つことを教えられる。このことを振り返るだけでも、我々が能動と受動とを、単純に対立させていないことに気付けるはずだ。「私は教えられる」という文は、「私は教えることが出来る」という可能の意味と、「私は(他から)教えられる」という受身の意味とを持っている。筆者は、本来の意味は「自発」であり、自然展開に価値を置く態度がそこにあるという。自然展開が主で、それが可能や受身や尊敬のニュアンスが付加されるというわけだ。言い換えれば、日本語は「中動態」的な価値観がビルトインされている言語なのである。さらには、「出来る」という可能の言葉が、そもそもオデキが出来るという(出て来る)という自然展開を語源としているというダメ押しがされる。いや、全編、明晰なダメ押しだらけなのだ。

中動態うんぬんは別にして、もっと早く読んでおくべきだったと後悔する。本文が200頁にみたない薄い選書なのだが、この本にあることは、今後何度も立ち戻って考えないといけないという気持ちになった。そう考えるポイントをメモしておこう。

60年代に登場した廣松渉の哲学の中心テーゼは「物的世界観から事的世界観へ」だった。今はまちづくりのかかわる人でさえ、地域の「人、モノ、コト」を活用しましょうとさらっと口にする。マーケティングの世界でも、モノ消費からコト消費へ、というスローガンが流行だ。いずれも物(モノ)とは、単なる物体か財物のことを示しているといっていい。しかし、著者は、「もののわかった人」「ものごころがつく」「ものしり」という日常語を取り上げて、それがむしろ「恒常不変の神の原理=世間一般の法則」を表すことを説得力をもって描き出す。一方、コトの方は、「非原理的・一回性・可変」の言葉・事を表す。日本人はむしろ、生成変転するコトの世界に過剰ともいえるほど敏感に反応してきたという。こと日本語による思想理解の観点からすると、不変vs.可変と読むべき対立を単なる物体vs.事象ととらえるのでは、いかにも皮相だ。

筆者は、コト的な世界を言語の呪力に頼って一つ一つ処理していこうとする日本人の態度を示すものとして、ことわざや標語、かけ声や囃子、「さようなら」という別れの挨拶、電車の発車ベルや教室の号令にまで理解を広げていこうとする。いわば微分化されたコトに対して、日本人はそのつど言葉で手当てしないと気が済まないのだろう。

ところで哲学者の中島義道は、論壇にデビューした当時、無意味に思える標語や放送を揶揄して『うるさい日本の私』という本を書いて快哉を浴びた。ヨーロッパを尺度にして日本の現状を体当たりで否定していく様を、僕も面白く読んだ気がする。中島のその後の本は優れたものが多いと思うが、しかしこの筆者の本を読むと、中島の主張が自分の好悪を日本社会にぶつけているだけで、まったく哲学的でも思索的でもないことに、今さらながら気づいた。

すくなくとも今の僕には、驚くべき本だ。こういう本に出会えるうちは、まだまだ読書を続けるべきなのだろう。