大井川通信

大井川あたりの事ども

『あなたの人生の物語』テッド・チャン 1998(その1)

僕にはもう10年以上やっている少人数の勉強会がある。毎月開催が理想だが、何年もあいてしまったこともある。今のメンバーは、文学、映画、現代美術が専門のAさんと、映画など映像関係が専門で博覧強記のYさんと、三人でやっている。多少の批評好きという程度の僕が、基本的にテーマを設定し、レジュメを切って、あとはプロの二人に自由に語ってもらうという趣向だ。素人の特権である任意のテーマ設定が、苦しくもあり、何よりの楽しみにもなる。

今月は、先月の会でYさんが面白いとつぶやいたこのSF短編とその映画化作品『メッセージ』を扱うことにした。レジュメづくりのプロセスを「逐次的に」記録しようと考えたのだが、会合はもう来週に迫っている。付け焼刃はいつものことだ。まずは短編を読んだ感想をメモしておこう。

はじめに走り読みしたときには、ここに言語学や哲学、宗教の問題が真正面から扱われているのがわかったので、できたら関連の文献にもあたって、そういうテーマで報告できるのではないか、と思った。しかしやや丹念に再読してみて、考えが変わったところがある。小説は哲学書ではない。いかに哲学的なテーマを扱っていても、読者を置き去りにして、あらゆる常識を疑う哲学的思考を展開するわけにはいかない。娯楽作品としては、我々の通俗的な関心や常識を前提にしたうえで、目新しいSF的な設定や哲学的な問題をいわばスパイスとして読者を魅力的な架空の物語に導くことが目的なのだ。著者の物語づくりの手際こそ味わうべきなのだろう。

では、この小説の(誰でも了解できるという意味で)通俗的な関心とは何か。「未来を知ることができるか」「未来を知った人間はどうなるのか」ということだ。こういう関心がテーマなら、ふつうはタイムマシンが登場するのだが、そういう特別な装置ではなくて、特別な言語の使用自体が未来を知る手段になる、という発想が目覚ましくて、旧来の通俗的関心を押し隠しているところがある。

ここで、このブログの常連である『中動態の世界』から引用してみる。「社会や歴史という場を必要としない言語決定論、すなわち言語が直接に思考を決定づけるという考えは、ソシュール言語学を極度に単純化する形で述べ立てられ、一時期大流行した。それは一言でいえば、言葉があるから現実を認識できるという考えである」(P112)國分は、この考えに基づく社会構築論を「大袈裟な理論」として批判するが、たしかに80年代には、言語が変われば現実も一変するという考えが一世を風靡していた記憶がある。この小説の設定は、あきらかにこの世界的な思想潮流を背景にしているだろう。

しかし未来を知るような認識をもたらす言語を人類が持っているのは無理がある。だから、ヘプタポッドと呼ばれる異星人の言語を習うことで、主人公が特別な能力を得るというSF的設定が作られているのだ。ここで異星人の言語をめぐる言語学的な説明をざっと要約してみよう。

ヘプタポッドは、音声で話す言語と文字で書く言語との二つの別個の言語(二元的文法)を使う。人類の言語は、前者が一次的で後者が二次的なものと考えられるが、ヘプタポッドの場合は後者がむしろ本来的な言語だ。

ヘプタポッドの文字言語(表義文字)は文節をもたず、音韻も持たない。語順からも自由である。順序や因果関係の概念もない。

人類の言語が「事象の時系列的、因果律的解釈」に基づくものだとしたら、ヘプタポッドの言語は「事象の目的論的解釈」に基づいている。前者は「逐次的認識様式」を発達させるし、後者は「同時的認識様式」を発達させる。

それでは、このような言語の使用は、この小説が描くように未来を知ることを可能にするのだろうか。ヘプタポッドの言語では「第一本目の線を書きはじめるまえに、全体の文の構成を心得ていなくてはならない」という。つまり、考えながら書くのではなく、あらかじめ考えてしまったことを書く、ということだ。何事に対しても予めわかってしまっているという態度をとることと、実際に未来が既知のことになるということは、しかしまったく別のことだろう。予言者が、実際に未来を予言できるわけではない。同時的認識様式ということで思い当るのが、映像記憶についての特別な能力者のことだ。一瞬見た風景を後から細部まで正確に描き起こす能力は、因果的ではない同時的な認識に基づくものだろうが、彼らの能力が未来の風景に届くことはないだろう。

作中で列挙されるヘプタポッドの言語の形式的な特徴だけの力では、未来を認識することは難しい。この小説では、異星人との交流というSF的設定が、この論理の飛躍を自然なものに見せているのだ。