大井川通信

大井川あたりの事ども

『あなたの人生の物語』テッド・チャン 1998(その2)

主人公は、ヘプタポッドの文字群をマンダラのようだと述べている。前回書いたように、言語の形式的な特徴のみで未来をのぞくことは難しいとしても、この言語に宿る実質的な別の力によってそれが可能になるのではないだろうか。人類がもつもので、この言語に近い存在は宗教だろう。

明治の宗教家清沢満之(1863~1903)は、『宗教哲学骸骨』の中で、宗教をだいたい次のように説明している。これは僕には、とても明晰で納得できる定義だ。

宗教は、有限が無限に向き合う関係である。宇宙の万有(有限の全体)は有機的な組織をなしていて、それぞれの有限がその固有の本性と働きを実現するためには、他の一切の有限はそのための器官になる。宇宙の中のある一つの有限が主人になるときには、他の一切の有限は家来となって、互いに従属しあう。どの有限を主人としても、その主人と家来の関係で無限の全体を尽くすことになるが、内部の関係においてはそれぞれ異なっている。これを「主伴互具の関係」といい、宗教の要は、この関係を自覚し了解することにある。

この定義に基づいて、この小説にかかわる問題を考えてみよう。有限が有限とかかわる場面では、因果律と「逐次的認識様式」で足りるだろう。しかし有限が無限と向き合うためには、ある種の「同時的認識様式」が必要になる。無限とは、その定義上、空間的にも時間的にもその一切なのだから。その一切と現にかかわっているという事実を、同時的に認識する課題は、しかし普通に考えると不可能である。この不可能を超えるのが、宗教の本質なのだろう。たとえば、曼陀羅は、無限を象徴的に図像化したものだ。作者は、ヘプタポッドの言語をむしろ曼陀羅から着想したのかもしれない。作者は初期の短編『理解』で、「わたしはひとつで全宇宙を表現する巨大な象形文字のことを思って、楽しんでいる」というセリフを書き込んでいる。

すると、言語の特別な特性からだけではなく、むしろ宗教的と呼べるような態度変更によって、未来を知ることができるようになったと考えるべきことになる。実際主人公の発言は、この態度変更が起きたことを告げている。「未来を知ることは自由意志を持つことと両立しない。選択の自由を行使することをわたしに可能にするものは、未来を知ることをわたしに不可能とするものでもある。逆に未来を知っているいま、その未来に反する行動は、自分の知っていることを他者に語ることも含めて、わたしはけっしてしないだろう。未来を知るものは、そのことを語らない」

しかし、そうであるなら、主人公の獲得した能力が自分の人生の範囲に限定されているという設定は、通俗的関心にとって了解しやすいものとはいえ、中途半端な印象を免れない。さらにいうと、個人の人生における事細かな事実の認識というものも因果律の世界での関心事であって、まったく異次元であるはずの同時的な認識のもたらす成果にはそぐわない気がする。

小説では、絶えず挿入される娘とのエピソードが、それが未来形で書かれているということと、時系列がランダムであるということが少しづつ読者の違和感をつのらせる原因となっており、結末において、この宙に浮いたようなエピソード群がすべて「未来の記憶」であることがわかって衝撃を与える構成となっている。それはある程度は成功していると思えるのだが、しかしこれが、過去を振り返るときの一般的な回想とまったく同じ形式(ランダムであることも、回想する者が特権的に「未来」を知っていることも)であることはどうなのだろうか。時系列的に認識の時点が違うだけで、その内容がまったく同じだというなら、真の意味で認識や態度の変更が起きているとは言えないのではないか。これはそもそも「未来を知る者は、そのことを語らない」という設定にも関わらず、この小説が主人公の「語り」で成り立っているという根本の矛盾に由来することかもしれない。