大井川通信

大井川あたりの事ども

『月と六ペンス』 サマセット・モーム 1919

 

読書会で『月と六ペンス』を読んだ。こういう機会がないと、確実に生涯読むことのない作品だ。モーム(1874~1965)が想像より現代に近い作家であること、とても面白い短編を書いていること、など知ることもできた。若い世代が中心の読書会なので、彼らの本の読み方、読書会という場でのふるまい方も興味深い。おじさんたちの世代のそれとはまるで違っていて、感心する部分が大きい。僕たち(以上)の世代は、そういう場では精一杯背伸びをして、とがった自己アピールをしがちだ。以下は、そんなおじさん世代の宿命を帯びた課題レポートの抜粋。

 

登場人物たちの関係は以下のようになると思う。
ストリックランド: ただ描く人/解釈や評価は苦手
ストルゥーヴェ : 下手な描き手/優れた評価者
批評家たち   : 専門的で権威的な解釈者。芸術的天才を捏造する。              語り手     : 表現力も評価力も中途半端。芸術家の天才物語を捏造する。
夫人、隣人たち : 物語の消費者。あるいは、作品の寄生者。

物語は、ストリックランドの死後、彼の芸術家としての評価が確立された後から回顧される。平凡な株式仲買人である彼が、専門外の場所から既存の芸術の更新者として登場し、ジャンルを活性化させる。批評家たちは彼への評価で自らの権威を守り、新たな天才の登場に市場も湧く。凡庸な書き手たちが、大衆向けに天才の物語を執筆し、それが喜んで消費される。一見、孤高の天才の人生をロマンティックに描きながら、20世紀的な「芸術」の生産と消費の仕組みを冷たく突き放して描いているようにも読めた。

また、形式上は平凡な書き手による物語なのだから、それでいいのかもしれないが、最後のタチヒの部分は緊張感がなく、全体のバランスを悪くしている気がする。ただし大衆的な物語としては、前半の主人公のむごい所業が、最後の悲惨な死でつり合いが取れているのだろう。もし強情で健康のまま名声や富まで得ていたのなら、人気小説として成立したのだろうか。

21世紀に入って、われわれ誰もがストリックランド近づいている、と思うがどうだろうか。別に定職をなげうって寝食を犠牲にしなくても、好きなことができる。賞賛や天才の称号すら、容易に調達できるから、それに振り回されることも少ない。