大井川通信

大井川あたりの事ども

『敗者の想像力』 加藤典洋 2017

加藤典洋は、比喩の使い手だ。思ってもみないような比喩を持ち出し、作品や現実の意外な真実を引き出す。それが何年か前に、久しぶりに彼の本を手に取ったとき、その比喩の精度がずいぶん落ちたような印象を受けた。この新著でその印象は決定的になった。全体を通じて、鮮やかさに思わず膝を打つといったような比喩や解釈は、皆無だったといっていい。言いたいことはわかるけれど、ずいぶん強引だなあ、というのが大方の読者の反応のような気がする。いったい初代ゴジラが戦争の死者であるという比喩から出発して、後に続く子ども向けのゴジラシリーズがその「不気味なもの」の飼いならしであり、それがさらにキティやポケモンなど「かわいい」文化の出現を促した、などという解釈のどこに説得力があるのだろう。せいぜい事情を知らない留学生の耳目を驚かすくらいではないのか。

著作としての問題点は、「敗者の想像力」という鍵概念が、うまく焦点を結んでいないことだ。国家の敗戦と個人の敗者体験とは元来まったく別々のものだろう。それを重ねざるをえなかった世代から「敗者の想像力」による戦後思想の最良の営みが生まれた、ということまではわかる。しかしこの本の中で「敗者の想像力」は、まるで著者が認定さえすれば、たんに占領体験を研究したり、まったく個人的に挫折したりすることからも自由自在に生み出されるかのようだ。

なぜこんなことが起こるのか。それは、この著作自体が(一般的な意味での)敗者の想像力を使って書かれていない、という根本の矛盾に行き着くような気がする。敗者とは何か。それまでの自分の経験や蓄積を突き崩されて、そのがれきの中から、これだけは確かだというものを何とかつかみなおして、徒手空拳で必死に世界にむきあう者のことだろう。ところが、著者は、従来からの自分の業績や仮説の正しさを誇示しながら、あれもこれもと自分の知的在庫を総動員するように楽しげに論をすすめる。これは、持てる者の議論、敗者の文体ではなくむしろ勝者の文体で書かれた著作だ。勝者には、敗者「への」想像力は可能でも、敗者自身の想像力を理解することはできない。

末尾に置かれた大江健三郎の『水死』をめぐる論のなかで、大江を裁判に訴えた側について、「廉恥心に乏しい」「ウルトラ右翼」「愚劣な批判者によるタワゴト」等と口をきわめて罵っている。一方、大江は「孤立」した気の毒な「受難者」となる。その判断の当否はともあれ、初めから正邪がゆるぎない立場からの大江擁護の批評が面白いはずがない。

加藤典洋の批評には、軟体動物的な柔軟さのイメージを持っていたのだが、意外に硬直した二項対立に傾く資質があることに気づいた。大江論においてそうだし、そもそも勝者か敗者かというのも単純な二元論だ。加藤の比喩が精度を落としたように感じたのは、この二項対立の枠組みがより前面に出てきて、比喩や解釈がその枠組みに仕えるようになったためかもしれない。それが年齢によるものか、時代への危機感によるものかはわからないが。