大井川通信

大井川あたりの事ども

『ジゴロとジゴレット』 モーム傑作選 新潮文庫(その2 )

◯『マウントドラーゴ卿』

登場人物は3人。精神分析医のオードリン医師と、診察室で向き合う外務大臣のマウントドラーゴ卿。そして患者の悪夢に登場する下院議員のグリフィス。

オードリン医師は、患者を治す特別な資質に恵まれているために名医とされるが、精神分析学を信じてはおらず、人間精神をわからないものと捉えている。

マウントドラーゴ卿は貴族出身できわめて有能な人物だが、家柄を鼻にかけた恐ろしく尊大な男である。労働者階級出身のグリフィスを軽蔑しており、グリフィスの父親の眼の前で彼の政治生命を絶つような論戦をしてしまう。その後、グリフィスが登場する悪夢に悩まされ、夢の中での自分の醜態を現実のグリフィスに知られている気がして困惑を深める。

オードリン医師は、それを彼の罪悪感によるものと解釈し、グリフィスに謝るようにアドバイスするが、マウントドラーゴ卿はそれを拒否する。卿は約束の時間に診察室に現れず、医師は、新聞でホームからの転落事故で彼が死んだこと、その同じ日グリフィスも自宅で息を引き取っていたことを知って青ざめる。そこには、何か人智を超えた二人の応酬があったはずなのだ。

ある種のホラーだが、マウントドラーゴ卿の人物造形は見事だ。「俗受けのするきれいごとを真に受けてしまう」労働党議員への批判は的を得ており、悪役一辺倒というわけではない。

  ◯『サナトリウム

神への信仰を失った現代、結核を病みサナトリウムで死と向き合う入所者の人間模様を、突き放したタッチで描く。長期の入所者のマクラウドとキャンベルは、お互いに憎み合い攻撃しあうことで自我の均衡を保っており、片方の突然の死で一方も衰弱してしまう。会計士のチェスターは、家族と平凡で幸福な暮らしを送っていたが、突然の死病に愛すべき健康な妻を憎むようになる。

しかし、モームはこのやりきれない小さな世界に救いを与える。享楽的な人生を送ってきた軍人テンプルトンが、美しいアイヴィを心から愛するようになったのだ。彼は自分の死期を早めることを知りながら、結婚を申し込み、サナトリウムを出る決断をする。二人を見送ったチェスターは、妻に詫びて、死の恐怖に打ち勝って妻を愛そうと考える。

やや唐突なハッピーエンドだけれども、サナトリウムに希望をもたらすテンプルトンが元々「世間的な道徳観からみれば最低な男」だったところに、モームの人間観が現れているようだ。

 ◯『ジゴロとジゴレット』

カメラが長回しで追いかけるように場面が、カジノのバーからテラスでのショー、そしてバーから楽屋へとスムースに移っていく。それとともに焦点の当たる人物が自然に入れ替わりながら、それぞれの人間模様を描きつつ物語が展開する構成の妙。

カジノの客サンディは、バーで金持ちの未亡人イーヴァと待ち合わせて、一緒にテラスで夕食を取りながら評判のショーを見ようとする。これは高所から火のついた浅い水槽に飛び込む曲芸で、ステラが夫のコットマンと行っていた。サンディはステラが死ぬ場面を見たいと公言する。ショーは成功するが、サンディたちは、同じテラスの古風で奇妙な老夫婦に注目する。老夫婦は席を立ち、バーで休憩するステラ夫婦をねぎらいに出向いて、自分たちの過去を話す。老婆は40年前に人間砲弾の曲芸で一世を風靡したという。しかしブームは去り、その後夫婦でペンションを細々経営しているのだ。老夫婦が立ち去った後、楽屋で突然、ステラはもう曲芸ができないと泣き出す。金持ち連中の道楽のために、これ以上死の恐怖に立ち向かえないというのだ。夫のコットマンは、苦しかった生活の果てにようやくつかんだ成功だと必死で説得するが、妻を愛する気持ちからそれをあきらめかける。その瞬間ステラが吹っ切れたように、気持ちをたてなおすのだ。