大井川通信

大井川あたりの事ども

『富江』シリーズ 伊藤潤二 1987-2000

ホラー漫画といえば、長い間楳図かずお(1936~)以外考えられなかったが、近ごろ伊藤潤二(1963~)の良さを知るようになった。『富江』は、以前に映画をビデオで何本か見て印象に残っていたが、原作を初めて読んでみた。伊藤が楳図かずお賞に応募してデビューを飾った短編をベースに、長く書き継いだシリーズもので、作者の思い入れが強いのだろう。主人公の富江のキャラクターと基本的な能力が共通するが、彼女が様々な場所に出没して奇怪な事件を巻き起こす。

すぐれたホラーは、非日常的、非現実的なストーリーによって、読み手の感情を恐怖で揺さぶるだけではなく、人間の存在の隠された本質をあぶり出す。富江の物語を読んで、日ごろ漠然と感じていたことを、あらためて考えさせられた。

富江は、圧倒的な美少女として描かれる。富江は高慢で凶悪な性格だが、その特別な美しさは、男たちに彼女を殺したいという欲望を抱かせる。ところが彼女の肉体は異常な再生能力をもっていて、肉体の一片からでも元の姿を再生して増殖する。それぞれの富江の性格はまったく元のままで、互いを認めずに殺し合いまでするが、富江にかかわる人間は、彼女に挑む者を含めてすべて破滅を免れない。

これは極端な設定だが、人間文化のある実相をえぐり出しているともいえるだろう。美人(美少女)は特別な存在とみなされる。特別であるがゆえに、肉体を離れた観念として存在し続けることができる。と同時に、より自然に近い荒々しい存在として力をふるい、血や暴力を招いてしまう。

たとえば樋口一葉の名作『にごりえ』では、特別な美人である酌婦のお力に入れあげて身を持ち崩した源七によって、無理心中という悲劇が起こされる。しかしお力は、物語の主人公として読み継がれることで命を永らえることになる。ただこれは、まだ身分や階級の差が歴然としていた明治の物語だ。

個人の尊厳や平等が建前として根付いた現代社会においては、美人という文化的存在の置き所が難しくなっている。富江の美しくもグロテスクな姿は、現代における美の問題を象徴しているのかもしれない。