今の住宅団地に引っ越して20年になる。はじめはJRの駅やバイパスの方ばかり向いて暮らしていた。高台から反対に降りた側にある、里山のふもとの小さな集落のことなどまったく気にかけていなかった。そういう住民が今でもほとんどだろう。僕がこの土地に目を向け、やがて大井川歩きなどという酔狂なことを始めるようになったのは、ある出来事がきっかけだった。
そこにはダムから小川が流れ、田んぼが広がっており、神社とお寺があって、古い農家もちらほら見える。この景色を目にしているうちに、ここにゲンゴロウがいるのではないか、とひらめいたのだ。まさか、いやひょっとすると、いやいやそんなことはないはずだが・・考え始めるとたまらず、田んぼをのぞきに飛び出していた。
小学生の頃、谷保の水田と多摩川によく遊びに出かけた。ヤゴやフナやザリガニなどを捕って遊んだが、なにより思い出深いのは、小型のゲンゴロウだ。田んぼの脇の水路の泥をザルで救い上げると、泥といっしょに、体長が1センチばかりで背中にいろいろな模様が入ったゲンゴロウをつかまえることができた。あこがれの大型の種類はいなかったが、二本の後ろ足をオールのように使って泳ぐ姿はゲンゴロウそのものだ。
あのゲンゴロウに出会えるんじゃないか。僕はその一夏、休みの日には、あぜ道で田んぼの中を覗き込んで過ごした。そうしてまず、たくさんのオタマジャクシに紛れて、水面を右に左に暴走するハイイロゲンゴロウを見つけた時には、躍り上がった。やがて、昔捕まえた記憶のある、きれいな縞模様のシマゲンゴロウやコシマゲンゴロウにも運よく巡り会えた。生まれて初めてヒーターやポンプ付の水槽を用意して、冬まで飼育して観察した。
飽きっぽい僕は、ゲンゴロウへの情熱をその年で使い果たしてしまったのだろう。ただあの夏のおかげで、大井川周辺が僕のフィールドになったのはまちがいない。やがて鳥を追いかけたり神仏のホコラや炭坑跡を探したりすることに興味は移ったが、今でも水をはった田んぼをのぞくと、ワクワクする気持ちがよみがえってくる。