大井川通信

大井川あたりの事ども

ゴーゴリ『死せる魂』を読む(その2)

第1部は、完成されて1842年に出版されたものだ。一方、第2部は、1852年の死の直前にゴーゴリが自ら原稿を焼却してしまったため、残った草稿やノートから復元したもので、分量も1部の半分程度である。未完だし、欠落や粗略も目立つ。しかし、通読して2部の方が断然面白かった。

1部は、地主訪問という同じパターンの繰り返しで、単調になりがちだ。ゴーゴリは、人物に焦点を当てた緻密な戯画は得意だが、人々の関係や集団を描いて、ストーリーを展開させるのは苦手ようで、NN市でのチチコフの騒動のかんじんな顛末は、およそラフなスケッチにしかなっていない。謎の訪問者による町のお偉方のドタバタ劇なら、戯曲『検察官』の方が、ずっとスピード感があって面白い。

2部になると、単純なカリカチュアではない、内面に苦悩や確信をもった人物も登場し、ストーリーも動き始める。ややぎこちないが、チチコフの内面の転換の兆しも描かれる。キーマンである地主コスタンジョーグロが語る言葉も、ロシアの近代化に対する批判として地に足がついたものだ。彼は、農業を中心に、自然の営みと調和した領地経営で豊かな富を生み出している。死んだ農奴をかき集めて一儲けをたくらむチチコフに対して、死せる魂ではなく自分の生きた魂について考えよ、と忠告する賢者ムラーゾフの言葉は全編のモチーフを象徴して、力強い。

しかし、何よりこの長編の魅力は、ときに羽目を外すほど奔放な語り手の存在だと思う。ここでは作者の本音が存分に語られていると見ていいだろう。役人をはじめとする人々の滑稽な権威主義は、完膚なきまでにたたかれる。少年時代に訪れた見知らぬ土地での、様々な風物や人々の暮らしへと飛翔するロマンティックな想像力は、作家の視線の原型を物語っているようだ。ロシアの大地を駆け抜ける馬車からの風景の魅力を語る文章には、作者のうっとりと夢見心地の気分が乗り移っている。

ゴーゴリのさまざまな作品を貫く美質は、時代や文化の違いがあるにもかかわらず、どの一行にも不可解さ、不透明さが感じられずに、生の臨場感がみなぎっていることだ。だから、時空を超えて自在に「笑い」すら操ることができる。もちろん、翻訳の良さもあるだろうが、それだけではない。ゴーゴリは作品を知人に向かって朗読で発表していたそうだが、目の前の人に口頭で伝えることを目指して彫琢された文章に、その理由があるのではないか。

最後に。岩波文庫版のロシア風の挿絵が楽しく、また理解の助けとなった。ロシア風と勝手に判断するのは、子どもの頃愛読したソ連の科学入門書の魅力的な挿画に似ているので。