大井川通信

大井川あたりの事ども

『飢餓同盟』 安部公房 1954

読みながら、違和感を持ち続けていた。「同盟」という政治運動のグループ(党派)の問題を扱っているのだから、おそらく60年代後半の作品とかってに思い込んでいたのだ。それにしては様子が変だ。実際には、終戦後まだ9年という時期に出版された小説だったことに読後気づいて、納得がいった。

僕たちのすぐ上の世代は、連合赤軍事件(1972年)に行き着くような学生運動における党派の問題点を、切実に批評や小説の形で扱っていた。そこでは主役は「戦無派」の学生であり、マルクス主義理論武装の下に、観念的に正義を突き詰めることで、革命が内ゲバへと反転してしまう過程が描かれる。

この小説の登場人物たちは、戦前と戦争体験を直接に引きずっている。学生はおらず、マルクスもレーニンも語られることはない。主人公の花井自身、革命を語るものの、右も左も関係ないといい、工場勤めだが組合結成にも関心がない。飢餓同盟の飢餓とは、プロレタリアートとは関係がなく、花園町の境界の守り神であり、かつよそ者を意味する「ひもじい」の言い換えなのだ。ひもじい同盟とは、伝統的な共同体の中で、土地の有力者たちによって虐げられてきたよそ者たちによる同盟である。彼らの原動力は、町の支配層への恨みと反発であり、今に目に物見せてやるという以上のビジョンがあるわけではない。(70年の文庫本解説では、今ではこっけいに思えるくらい花井たちをユートピア革命家と過剰に持ち上げている)

土地の土俗に根を持つひもじいたちの姿は、グロテスクだ。花井は猿のように尻尾をもち、井川はイボガエルと呼ばれ、織木はナチスの技術による機械人間である。彼らが見出した地熱発電による町の支配の夢はついえて、戦前からの有力者たちの連合によって利権はかすめ取られてしまう。その有様は、どこか気味の悪い戯画であるが、騒然とした時代のざらざらした手触りをしっかり残しているようだ。後年のスマートな作品とは違った魅力を放っている。