大井川通信

大井川あたりの事ども

学芸会的な芝居について

知り合いに頼まれて、アマチュアの劇団がカフェでやる芝居を観に行った。ふだん小劇場の芝居しか観ないが、それも久しぶりだ。そういうものだと思って観たので、とくにがっかりしたとか、面白くなかったということはない。ただ、せっかくなので、そういう芝居とは何かを考えてみることにした。

まず、ストーリーに不自然な飛躍があって、わかりにくいし、入っていけない。とってつけたような話、というか、野球でよく言う、ピッチャーが「置きにいっている」ボールという感じがする。どうしても語りたいという物語でもなさそうだ。

次に舞台。ストーリーを、なんとか三次元に置き換えました、というだけで、舞台独自の魅力が見いだせない。ストーリ-が陳腐でも、目の前の舞台の時空に集中力と吸引力があれば、それに引き込まれるのだが。どうしても作りたいというシーンがあるわけでもなさそうだ。ところで、すぐれた芝居には、どんなシンプルな舞台でも、ゼロ記号(それ自体意味作用はなくとも、舞台を統率する強力な磁力をもつモノ)がある、というのが僕なりの発見だが、もちろん、そういうものも見つからなかった。

最後に役者。いろいろ理屈を言っても、しょせん目の前のヒトを見るのが芝居だから、そこに魅力がなければならない。もちろん光る部分もあるのだが、全体として水準を維持するのは難しい。

そして、観客。地方の小劇場の芝居では、関係者率がとても高い。演劇仲間という関係者と、知人友人親戚という関係者だ。今回は、地元の公立劇場の企画でもあるので、近くの席には、地元のドンみたいな有名な演出家の顔も見えて、ちょっと豪華だった。

「学芸会」の範疇を実質こえているのは、こんなふうに街の一角で、自主的に芝居を成立させている、というところだ。演劇を核として、人のつながりを組織し、それを波及させているところ。ありふれた雑多なものを糾合して、とにかく演劇をなりたたせて、そこに一回的な身体同士の突き合わせを実現すること。そのこと自体の価値が、僕にもわかりかけてきた。

ところで、舞台装置のほとんどない空間で、三本の短編のオムニバスの芝居を観たので、漫才とかコントとかいうものを連想した。ライブで観たことはないので、あてずっぽうになるが、例えば優れた面白いコントは、ストーリー(ネタ)の要素と、役者(芸人)の要素とが、決定的に強力で魅力的なのだと思う。すると、それと演劇を差別化するものは、舞台の要素の比重ということになるのだろう。