大井川通信

大井川あたりの事ども

生きているそのあいだ、なるたけ多くの「終わり」に触れておく

作家いしいしんじの言葉。鷲田清一の新聞連載「折々のことば」で知ったもの。

僕の実家は、動物を飼うことがなかった。庭で捕まえたセキセイインコを飼っていたことがあるくらいだ。そのセキセイインコも、僕が外でカゴをあやまって落としてしまい、逃げられてしまった。実家の屋根の上を必死で羽ばたきながら逃げていくそのインコの後ろ姿は、いまだに目に焼き付いている。

当時、父親はたしかこんな理屈を口にしていた。動物を飼うと、その死に目に会わないといけなくなる。どうせつらい思いをするなら、はじめから動物など飼わないほうがいい。父親は軽い気持ちで話したのかもしれないし、本当の理由は、生活に余裕がないというあたりだったような気もする。しかし、この理屈は僕の耳にこびりつき、身体にはいりこんでしまった。

どんなに表面的に親に反発したりしても、生活のベースとなる感覚や嗜好は、育った環境の影響下にあるのだろう。ペットを飼う話になったときには、僕は何度となく父の口まねをしてきたような気がするし、その理屈を疑ってこなかった。それは、この理屈の背景にある価値観を疑ってこなかったということだ。冒険や高望みをして日常を踏み外すことなく、欲望をコントロールしてつつましい生活を送るのが正義なのだ、と。

いまさら、それを大きく変えることはできない。ただし「終わり」は否応なしに迫ってくる。せめて「終わり」に向き合う態度だけは、そっと方向転換しておきたいと思う。