大井川通信

大井川あたりの事ども

「あゆみ」 劇団しようよ 2018

枝光のアイアンシアターに久しぶりに行く。市原さんが辞めてから、行ってなかった。枝光本町商店街は健在だった。もう商店街を舞台にした芝居、とかはやってないと思うが、そういうことと関係なく、したたかに生き延びている。演劇とか、現代美術とか、あるいはまちづくりとかが商店街や街を活性化させるという。それ自体はいいことだが、生活の手強さ、があってこそだ。そしてたいてい、上澄みをかすめ取るだけで、そこに手が届いてないような気もする。

柴幸男さんの有名な作品の、劇団としても三度めのリミックスとのこと。原作を知っていれば、もっといろいろ気づけたのだろううが、とても気合を入れてていねいにつくっているのがわかって面白かった。小劇場の舞台はいいなと、心から実感できた。

舞台装置はまるでない。小道具もランドセルやカバンやカメラぐらい。鬚もじゃだったりする普段着の男たちが、少女の半生の物語を鮮烈に立ち上げる。芝居の間役者はずっと壁際にすわって、はけたりしない。なにもない空間で、役者たちの身体だけで、架空世界を生み出すマジックは爽快だ。

シーンの合間ごとに時間を止めるようにして、気弱な子犬みたいな目をした男(たぶん演出の大原さん)が出てきて、画用紙をめくりながら、手書きの文字で観客にメッセージを送る。あなたはどこから来ましたか、に始まって、アンネの日記のことなど、芝居のテーマを外側から問いかけて、ドキッとさせられる。目まぐるしく展開する作り込んだ舞台と、アナログで素朴なメッセージとの対比が鮮やかだ。

最後に、最初にさかのぼって、早回しのように各シーンの断片をつなぎあわせる。役者たちは走りまわり、声をそろえてセリフを響かせる。柴さんの「わが星」でも同じような場面を観たことのあるのを思い出した。時空が沸騰したような、悪夢のような、死ぬときに見る一生の走馬燈のような、舞台ならではの魅力が圧縮された場面だった。

ただ芝居の始めと終わりに組み込まれた日常トークの意味は、ちょっと謎だった。これから芝居の世界をむかえるワクワク感を損なってしまうし、せっかく劇中の少女や父親の存在を自分なりに受けとめているときに、誰かの子育ての話は興ざめするだけだと思う。