大井川通信

大井川あたりの事ども

読書会三昧

大学の頃からの延長で、ずっと読書会というものにかかわってきた。友人や職場の同僚を誘って主宰したり、既存の会に申し込んで参加したりした。もし読書会がなかったら、社会人になってから勉強を継続することはできなかっただろう。その恩恵は感じる一方、その限界も痛切に感じざるを得なかった。

素人の読書会には、その分野の専門家や読みのプロが参加しているわけではない。だからその場から学ぶことは、ほとんど期待できない。期日までに課題図書を読み、事前に自分の読みをまとめ、当日の議論で自分の考えを捉えなおす。あくまで自分本位の作業をするための、ペースメーカーや励みとなるものでしかないのだ。それ以上のことを求めると、不満や失望ばかりがつのるだろう。万一、自分の考えをしっかり受け止めてもらえたり、それを先に進める優れた見解に出会えたとしても、ラッキーなおまけと考えるべきなのだ。実際、熱心な参加者ほど、自分の考えのみに関心があるような素振りをみせていた。

だから、読書会について、他の参加者のいろいろな意見が聞けて面白い、というような模範解答(理想論)を耳にしたりすると、よくそんな空々しいことが言えるものだと呆れていた。しかし、近年、三十年来のこの確信がくつがえされた。それは、昨年後半から、初めて小説のみを読む読書会に参加するようになったからだ。

考えてみれば、それまで読書会で読んできた本は、哲学や社会科学や批評の本だった。もともと「本当」を目指して書いている本だから、その本の読みや解釈においても、「本当」からの距離で歴然と優劣が生じやすい。ピント外れの読みがもたらすものは何もないのだ。

ところが、小説は、嘘に嘘を塗り固めた「虚構」である。読みは唯一の真実へと収斂することなく、何を感じるか、何を触発されるのか、何を導き出すのかは、まさに千差万別だ。そこでは個別的で、個性的な読みほど面白い。クンデラの『別れのワルツ』の読書会で、「作中ろくな男が出てこない」「誰の視点で読んでも感情移入しにくい」という女性たちのストレートな感想には、うならされた。

もう一つ、批評と小説の読者の違いを言うと、前者には虚栄がどうしても混じるが、後者はどっぷりと楽しむのが目的となるということだ。批評好きは、読みこなせない傑作をもてはやすが、小説好きは、面白くない名作には容赦ないだろう。ブランド品を求めて着る人と、あくまで着心地の良さを重視する人との違いといえるだろうか。洋服そのものについて語り合えるのは、後者というわけである。