大井川通信

大井川あたりの事ども

『壁』 安部公房 1951

たぶん高校生の頃読んで、惹きつけられた作品。およそ40ぶりに再読しても、古びた印象はなかった。なにより、終戦後5、6年という時期に、『飢餓同盟』よりも早く書かれていたという事実に驚く。

同時代を舞台にしていながら、近未来的というか、無時間的だ。壊滅的な戦争の破壊も、それに起因する不条理や無力感も描かれていない。戦前からの共同性の呪縛も、それに基づく湿っぽい悲劇、貧困や差別もにおわされていない。あらたな希望であったはずの、運動や革命の理念による高揚や、集団の力のおぞましさも触れられていない。つまり、『飢餓同盟』の世界には、多かれ少なかれ雪崩れ込んでいるところの、同時代の諸要素が、すっかり遮断されているのだ。

書かれているのは、個人というものに内在する、普遍的なリアリティだ。「S・カルマ氏の犯罪」では、名前の逃亡をきっかけにして、自分が存在すること自体のとらえがたさや不均衡が、他者とのぎくしゃくしたやり取りとともに、自分の内で成長する「荒野」や「壁」という卓抜な比喩でとらえられる。「バベルの塔の狸」では、個人の想像や構想の世界の肥大化を、奇怪な「とらぬ狸」たちの住む「バベルの塔」によって、ユーモラスに描く。「赤い繭」の諸短編には、同時代とのつながりがうかがえるものの、より純度の高い寓話として結晶化されている。

熱く騒がしい世相の中で、それに媚びることなく、このひんやりとした感触の物語を定着させる才能は、今から振り返ると、なおさら見事に思える。この簡潔な寓話を基準としてみると、後年の饒舌な『箱男』などはやはり物足りない。