大井川通信

大井川あたりの事ども

人は死んではいけない

開発が進むこの地域にも、大型の鳥の姿を見かけることは多い。トビや、アオサギやカワウなど。カラスだって、けっこう大きい。彼らの一羽一羽は、生まれ、育ち、老いて、死んでいっているはずだが、その死骸を見る機会はめったにない。残された森や里山の奥で、飛ぶことをやめ、苦しみ、ひっそりと死んでいくのだろう。

鳥見が好きな人間であっても、その一羽一羽の死について思いを致すことはほとんどないだろう。種として、その姿を見ることができれば安心して喜ぶ。生き物の生死流転の相を平然として観察している。そのことを考えると、少しぞっとしてしまう。

ところが、人間は、他者の一人一人を意識し、自分がそうした一人一人であることを自覚してしまった生き物だ。そうなると、一人一人は死んではいけない存在になる。死んではいけないにもかかわらず、しかし死んでしまう存在になる。前者の原則(本質)と、後者の事実(現象)との間の巨大な溝の間に、なんとか折り合いをつけて橋を渡そうと四苦八苦するのが、人間の営みとなる。

「人間の命は地球より重い」とか「基本的人権の尊重」とかいうのが、人間の本質側を深めた結晶のようなものだろう。そこから、弱く、もろい個人の身体に向けて渡された橋が、家系や血脈であったり、国家や共同性であったり、宗教や死後の世界であったり、未来や永遠の観念だったりするのだろう。

 

大型の鳥を見るまでもない。住宅街にも街中にも田畑にも、小鳥たちの無数の命があふれている。そこには、命と同数の死がまぎれていて、生と死を見分けることはできない。