大井川通信

大井川あたりの事ども

雨ごいとW杯

子どもの頃、地理の授業で、降水量の少ない四国の讃岐平野にため池が多いと習った記憶がある。近所を歩くと、僕が住む地域も、小さなため池があちこちにある。ほとんど江戸時代に作られたもので、水量の豊富な川がないことが理由だろう。それでも日照りには苦労したようで、雨ごいにまつわる言い伝えが残っている。制作中の手作り絵本も、そんな雨ごいの石仏の話だ。今はうっとおしい梅雨の雨水が濁流となって、ため池に流れ込んでいるけれども。

W杯で、日本が1次リーグを突破して、決勝トーナメント進出を決めた。ただ1次リーグ最終戦の戦い方が物議をかもしている。並行して行われている試合で後半、コロンビアが1-0でリードすると、0-1で試合に負けている日本が、それ以上の失点と、順位決定に影響するイエローカードを回避するために、点を取りにいかずに明らかな消極的な試合運びをしたのだ。

海外では批判的な意見が多いようだが、日本では、それもルールの範囲内の作戦の内であるという擁護論が目立っている。しかし、どうも釈然としない。

もし、コロンビアの試合が終了していたのなら、どんな試合運びも作戦の内だろう。しかし残り時間でセネガルが同点に追いつく可能性などいくらでもあったのだ。すると、日本が自力でできること、いやしなければならないことは、勝ち上がりのために同点をねらいに行きながら、セネガルの負けを想定した対策もとる、ということことになる。そうすれば、結果はともかく自らの運命の行方を自分の手中に置くことができたのだ。それは近代以降の人間にとって、一番大切なモラルのはずである。

にもかかわらず、日本はそれをしなかった。別の試合の行方という自分たちがまったく関知しえないものに運命の一部をゆだねてしまった。そのことが、欧米の人間から酷評される原因だろうし、すでに欧米化されている僕たちも奇妙に感じてしまう所なのだろう。

日本チームのそういうとっさの判断のうちに、雨ごいや神頼みの長い文化的伝統をみることはできないだろうか。ため池をつくって人事を尽くしても、それで間に合わない日照りはやってくる。運命の一部を天命にゆだねることに抵抗のない精神性。しかし、今回それは「天命」などではなく、あくまで他チームのゲームだったのだ。