大井川通信

大井川あたりの事ども

『現代社会はどこに向かうのか』 見田宗介 2018

自分自身が老境に近づくと、かつて親しんだ思想家たちもすいぶんと高齢になり、この世を去った人も多くなる。かつての若手すら、もう70代になっている。彼らの新しい著作を読むと、年齢という要素が大きいことに気づくようになった。思想家といえども、抽象空間で認識するマシーンではなく、生活し、老いていく存在である。

この薄い新書は、ほとんどが既発表の短文で新稿は少なく、構成もどこかぎこちない。これは出版社の問題だろうが、変換ミスも散見される。80歳を越える著者だが、さすがに文章は美しく、論理はみずみずしい。ただ、フランスの若者のアンケートで「非常に幸福」と答えた者の自由回答の引用を20頁近く読まされたのは、正直ちょっとうんざりした。

著者は、人類史を大きく三つの局面に区分する。初めは、原始社会の定常期。文明の誕生とともに爆発的な増殖期に入り、それは近代においてきわまる。現代は、著者が「高原」と呼ぶ再度の定常期に向かう過渡期と位置付けられる。

爆発期においては、生存のための物質的条件を確保するために「合理化」が必要とされる。しかしそれが達成されると、生産主義的、未来主義的、手段主義的な合理化圧力は不要となり、現在を楽しみ、他者と交歓し自然と交感する、高原期の精神が生まれるという。この巨視的な視点は、とても新鮮で貴重だと思う。

ただし、人間の悪徳の全てが、生活条件確保のために生じたかのような理解は、単純すぎて受け入れられない。著者は未来主義を否定しながら、あくまで未来志向であり、ユートピアを待望している気がする。邪推すれば、それが著者の「末期の眼」に映ったビジョンなのかもしれない。

この本では、70年代の若者と00年代の若者のアンケートの比較から、人類史の大きな局面変化を実証しようとしている。二つに時代に足をかけて生きている人間としては、高度成長期の風景にも愛着がある。その時代に一度きりの人生を生きた人々にも、かけがえのない生活と幸福の意識があったのだと思う。それは、高原期の人々の幸福にも遜色がないもののはずだ。