大井川通信

大井川あたりの事ども

二葉亭四迷のエッセイを読む

読書会で、二葉亭四迷(1864ー1909)の『平凡』を読んだ。岩波文庫には、表題作のほかに、エッセイの小品がいくつか収められているが、これも面白い。表題作のモチーフである文学批判を、ざっくばらんに語る中で、びっくりするくらい鋭い知性の輝きを見せている。

『雑談』と題されたエッセイの中で、二葉亭はこう語っている。文学者たちは、自分たちこそ「精神界」の主役であると勘違いして、世間を「物質界」と断じて、やれ堕落しているだの、意志薄弱だのと声高にののしっている。しかし、彼らの声など世間の人々にはまったく届かないし、彼ら自身もたいていは生活の条件に負けて、こそこそ現実界の住人になっていく。こうして、文学者たちの語る「精神界」は、実社会とはまるで無関係で進んでいる。

ところが、と二葉亭はいう。今日の社会には、実社会と表裏一体となってそれを動かす「精神界」が別に厳然として存在している。そしてこちらの方が、文学、芸術、哲学などより、はるかに活発で生気が充実している。

学者や批評家は、実社会に対して金力の支配を批判するが、それは皮相な見解だ。実社会を動かす「精神界」を支えるのは、個人や社会の欲望であり、幸福を求める活動である。これこそが研究に値するものではないか、と二葉亭は喝破する。

常識的な見解が持つ二項対立(精神界と物質界)が、実は共通の要素(精神活動)を含んでいることを指摘し、近代社会の動向を踏まえて、その優劣を逆転させる。見事な批評となっていると思う。しかも、この透徹した認識は、近年のイデオロギー論を先取りするような視点を持っている。社会を実際に機能させるイデオロギー(精神活動)こそ、批判的に検討すべきであると。

明治には、こうした批評は存在しないと思っていた。二葉亭四迷おそるべし、である。