大井川通信

大井川あたりの事ども

『詩とことば』 荒川洋治 2004

理由があって、詩について、少しまとめて考えようと思い立った。新しく、手に入りやすい詩論を探しても、今はほとんど出版されていない。結局、積読の蔵書から読み始めることにする。荒川洋治は、世代を代表する詩人で、僕にも好きな詩がある。感覚的に好きでたまらない詩すらある。たとえば、処女詩集冒頭の一行。「方法の午後、ひとは、視えるものを視ることができない」 

この本の特徴。まず、なぜ詩が読まれないか、という問いから入っていく。この問いについては、本の末尾近くで、一応の答えが与えられる。人と言葉の関係が単純になり、思考力や想像力を要する詩の言葉が避けられるようになった。人々が、言葉の想像力よりも、モノを楽しむようになった。しかし、詩人たちにも、気力や叫びが無くなっているのではないかと指摘する。ところで、かつては、詩だけでなく、評論の言葉も興奮し、燃えていたという指摘は興味深い。多くの批評家が、フィールドをこえて詩歌を論じる時代があったのだ。

そもそも、詩と詩でない言葉との敷居が低い。その境界に目をこらしている。だから、詩以外のものからの引用も多い。詩や、詩人を特権的なものと誇る様子が見られない。行分けや繰り返し、リズム、飛躍などの持つ意味や、散文との距離を、神秘化せずにそのものとして語っていく。

優れた詩人であり文章家ならではの、繊細な詩論がある。一つの詩が終わったところから、その終わった空気の中から、終わった詩の波を呼び戻すように書かれるのが、優れた詩だという指摘。

では、詩とは何か。「詩のことばは、個人の思いを、個人のことばで伝えることを応援し、支持する。その人の感じること、思うこと、体験したこと。それがどんなにわかりにくいことばで表されていても、詩は、それでいい、そのままでいいと、その人にささやくのだ」 だから、詩が過剰に持ち上げられなくなり、読まれなくなることによって、「詩は、ひとりになった。詩は人が生きるという、そのことに、今とても近づいているのだと思う」 好感の持てる言葉だ。今度は、僕らの側からも、詩に対して、それでいい、そのままでいいとささやく番だろうか。