大井川通信

大井川あたりの事ども

サラダと尺取虫

海が見えるイタリアンのお店に、夫婦でランチを食べに行く。正直な話、そんなことはめったにない、いやそれどころか記憶にすらない。二階に上がると、眼下は砂浜で、視界いっぱいに海が広がっている。建物はかなり古びているが、海に向かうカウンター席に並んで、パスタとピザのランチを注文する。絶景に感動したのか、妻はパシャパシャと写真を撮っている。僕は得意げに、うろ覚えの島の名前を解説する。

前菜のサラダを食べていると、不意に妻が自分のお皿の端を指で示した。そこには、とても小さな尺取虫が身を固めている、ように見える。まさか。陶器の皿のデザインの一部じゃないのか。試しにつつくと、尺取虫はたまらず歩き出した。

めったにしないことをすると、こんなものだ。しかしめったに起きないことだから、妻がどんな反応をするか想像できない。激高でもされたら、気まずくなる。ところが彼女は、あまり気にする風でもなく、サラダを平らげ、皿を下げに来た店員に尺取虫の存在を告げるときも、「美味しいからサラダは全部食べちゃいました」とほがらかだ。安心して、僕も「野菜が新鮮で安全な証拠ですよね」と軽口をたたく。

すぐにシェフが謝りに来て、ドリンクをサービスしてくれた。あとからメインのお皿を運んできた店員に向かって、僕は調子にのって声をかけた。「さっきの虫は、かわいそうなので逃がしておいてくださいね」 

店員は一瞬、気まずそうな顔になって、うつむいてしまう。おそらく、すでに殺してしまったのだろう。僕は、つまらない冗談をいったことを少し後悔した。