大井川通信

大井川あたりの事ども

『ナンシー関の耳大全77』 武田砂鉄編 2018

面白かった。1993年から2002年の間に雑誌連載され、単行本化されたもののベストセレクションである。大部分が読んだ記憶のあるものだが、時代をおいてあらためてゆったりと活字を組んだ紙面で味わうと、彼女の絶妙ともいえる指摘やこだわりと、それを最小限度の言葉数で伝える文章の芸に圧倒される思いがした。声を出して読み上げて文章をいとおしみたい気さえする。帯にある通り、ナンシー関に「賞味期限」はないのだ。

80年代は、柄谷行人が、僕には特別の書き手だった。90年代は、まちがいなくナンシー関がそうだったと思う。00年代は、やはり内田樹が突出していた。今は、ちょっと名前がでてこない。

かつて社会学者の北田暁大が、『嗤う日本の「ナショナリズム」』(2005)の中で、ナンシーを真正面から取り上げたことがある。読み直してみて、思ったよりいい文書なので引用してみる。ナンシーへの敬意が心地よい。

「ブラウン管前1メートルの世界に広がるリアリティ、そこには無数の欲望と自意識と政治とが交差している・・・ナンシー関という人は、この複雑なリアリティをその強靭な知的体力をもって、ほとんど独力で、批評の対象へと見事に昇華させた」

ナンシーは1962年(なんと七夕)生まれで、僕と半年くらいしか誕生日が違わない。ナンシーを読むと同世代を感じるし、その最良の成果であるような気がする。青森という地方出身であるということも、その思考のすそ野を広くしているだろう。

60年代から80年代までの30年間で、日本の社会はかつてないような劇的な変動と転換をこうむっている。ナンシー関は、テレビの視聴を武器にして、本来ならバラバラに四散してしまう30年間の異質の経験を凝縮し、ぶれない思考や感性の糧にしたのではないか。だから、90年代のテレビや社会の変化に対して、あれほど的確な診断をすることができたのだと思う。

若い編者による解説は、ナンシー関へのリスペクトにあふれているが、ちょっとガチガチで芸が不足している印象。(たかが)中山秀征へのしつこい攻撃などは、かえってナンシーのテキストを読み手から遠ざけてしまうと思うのだが。