大井川通信

大井川あたりの事ども

『マルクスの根本意想は何であったか』 廣松渉 1994

お盆に偶然、廣松渉の生家跡を訪ねることになった時、出かけに書棚から抜き出した本。この時期は、亡くなった人のことを思い返すのにふさわしい。お盆の習慣がない家に育ったために、今頃になってそんなことに気づく。往復の西鉄電車で、筑後地方の田園風景を眺めながら読んだ。

廣松の訃報に前後して出版された遺著なのだが、読み通したのは初めてだ。東京経済大学マルクス没後100年シンポジウムでの講演録も収録されていて、これは僕も当時聴講していたから、司会の今村先生との掛け合いもなつかしい。

廣松没後すでに四半世紀。独自の哲学体系の構築と呼ばれる仕事はともかく、マルクスに関する著作の方はかつての輝きを失っても仕方がないと思っていた。しかし、かなり武骨な廣松節が、意外にも(今でも・今こそ)リアリティをもって読める、ことに気づいた。

廣松渉が強調するのは、資本の下への労働の「実質的な包摂」といわれる論点だ。「自由な労働者」の「自発的な活動」によって、労働者は資本の体制の部品となっていく。近頃若手の哲学者が、能動でも受動でもない「中動態」を抽象的に論じた本が脚光を浴びているのを見ても、これが今の人々にアクチュアルな論点であることがわかる。

マルクス主義者廣松は、この自発的服従という事態を解消する展望を持っている。もちろん革命を起こせ、という単純なことではない。根本のところで、日常的生活世界の批判的再検討を行う必要があると訴えるのだ。少し長いので、省略して引用する。

「この複雑な間主体的な関係は『我と汝』の関係、愛の関係ということでつかみ取ることはできない。俗に自然界といわれているものまで含めた、われわれの住んでいるこの日常的生活世界というものは、社会的な生産という人間と自然との物質代謝の過程の場面に注目し、階級的対立といった場面まで配視してとらえ返す必要がある。そこに立脚して、自然の問題も、社会の問題も、さらにはもろもろのイデオロギー形態もとらえ直していかないといけない」(220頁)

手前みそにはなるが、住む場所から歩ける範囲の土地で、人間と自然と歴史の営み全体に関わろうという「大井川歩き」にも響いてくる言葉だと感じる。