大井川通信

大井川あたりの事ども

まずは、わかりやすい詩から読んでみよう

なぜ僕は詩を読まないか。こんな基本的な問いを考えるのだから、日ごろ気になっている幼稚な疑問についても、ずるずると明るみに引きずりだしてこないといけない。まずは、詩のわかりやすさ。

現代詩は多くは難解であって、特別な言葉使いや表記を駆使し、日常的な意味を外れた「意味」やイメージを扱っている。一方、一部には、わかりやすく平明な詩も存在していて、それが詩壇から評価され、たとえば思潮社の現代詩文庫に入ったりもしている。難解さには、もしかしたら常人にはわかり難い、技術や出来栄えの差が隠されているのかもしれない。しかし、平明さには、逃げも隠れもするところがない。無名の詩人の平明な作品との間に、どのような差異があるのか。あるいは、優れた難解詩との間に、どのような高評価の同質性が見いだせるのか。

そんなことを考えながら、書棚から、できるだけわかりやすく、薄い詩集を取り出してみた。『辻征夫詩集』(芸林21世紀文庫 2003)。40篇程度のアンソロジーだ。

はじめて読み通してみて、辻征夫(1939-2000)の詩は、そこまでわかりやすくはないことに気づいた。切り取り方が独特だったり、イメージにかなりの飛躍があったり。にもかかわらず、現代詩としてはかなりとっつきやすい部類に入るだろう。何が書かれているのかわからない、とか、評価のしようがない、というものはなかった。

そこで、思い付きでこういう作業をしてみた。一読後、もう一回読みたいという気持ちが起きて読み返して、ちょっと面白いと思えた作品は△。ちょっと面白いどころではなく、独立した輝きがあり、さらに読み返せそうと思えたものは〇。以下は、〇の一篇。

 

 立ちどまる

ことが好きに/なった

どこか/そのへんに/立って動かず

たとえば朝/八時五十数分の/瞬時の世界を感じている

眼を閉じると/見えない星/ドセイも/ちかづいてくる

 

結果は〇が2編。△が4編。これでもちょっと甘めにした評価である。もちろん、受け取る側の好みや感受性や能力の問題がある。しかし、打率1割5分というのは、実感としてかなり低い。もしかしたら、この「打率」の低さというものが、詩集を手に取ることをおっくうにしているかもしれない。辻征夫の詩は、平明で短いから読むのにストレスはかからない。それでも自分にひっかからない詩を読みつづけるのは、やっかいだ。まして、わかりにくい詩で「打線」が組まれていたら。

とりあえず、わかりやすさと面白さはつながっているわけではない、という当たり前のことを確認する。