大井川通信

大井川あたりの事ども

平山鉱業所の話(その1)

新刊の『絵はがきの大日本帝国』(二松啓紀著 平凡社新書)をながめていたら、産業発展をあつかった章で、炭鉱関連の二枚の絵葉書の画像があった。ただ二枚とも平山鉱業所のものなのが、少し意外な感じがした。全国には、はるかに規模が大きくて有名な炭鉱がいくらでもあったからだ。筑豊炭田の中でさえ、名が通っているわけでない。

「明治鉱業は炭鉱労働の過酷な印象を払拭しようと、快適な労働環境を強調する絵はがきを発行している」(211頁)という文脈で、清潔な炭鉱住宅と近代的な水平坑道を撮影した絵葉書を紹介しているのだ。「坑夫社宅」の絵葉書には、「昇坑すれば入浴、新聞、家庭団欒に一日の労働を忘れる」という説明書きが入っている。

平山鉱業所は、明治鉱業株式会社が、福岡の桂川町で経営していた炭鉱である。昭和5年(1930)に買収して、開発を進め、昭和47年(1972)に閉山となった。

僕は、12年前に、平山炭鉱の跡に何度も通ったことがある。炭鉱跡に興味があって見学にでかける機会は多かったが、個人的に調査めいたことをしたのはここだけだ。そのとき、旧炭鉱住宅に活気があって、すいぶん明るいことに驚いた記憶がある。

ふつう炭住(たんじゅう)というと、密集した長屋が老朽化して空き家の多いイメージがある。しかし平山炭鉱では、もともとの四軒長屋を各家でそれぞれ改修しており、一般の住宅街のような雰囲気だった。もともと区画が大きくて庭のスペースがあって、道幅も広くとってある。また、閉山の時にも、住民に低価格で払い下げたらしい。ただし共同浴場がなくなったので、各家で風呂を設置したそうだ。お年寄りにそんな話を聞きながら歩いていると、若い人たちが明るくあいさつしてきたりもした。

安川敬一郎(1849-1934)は、貝島、麻生と並び筑豊御三家と呼ばれ、三井三菱等中央資本に対抗して、明治鉱業株式会社を起こし、炭鉱経営をおこなう。労使協調をうたい、労働者の待遇改善に熱心で、婦女子の入坑禁止をいちはやく実施したりもした。二枚の絵葉書も、こうした経営理念を反映しているのだろう。

もちろん、炭鉱事故や労働争議など、さまざまな負の問題を平山炭鉱が免れているわけではないだろう。しかし、当初の経営理念は、会社が清算後の人々の暮らしやコミュニティなどにも長く良い影響を与えているのだ。そのことは正当に評価しないといけないと思う。「今でも会社の悪口を言う人はいませんよ」と住民の一人が教えてくれた。